そして最後に以下の文(前のバージョンからかなり手を加えた)を追加して、一つの論文になる。これで完成なのか?しかし長さが8300字を超えている。約三分の一を削らなくてはならない。トホホ。
以上精神分析において情動を治療の進展に関わる要素としてどのように捉えるかについてのいくつかの立場を述べた。ここでこの問題についてさらに考える上で重要と考えられる治癒機序に関する議論についても述べておきたい。治癒機序
therapeutic action とは精神分析において何がどのように働くことで患者の心に構造的な変化を促すかという理論である。従来のフロイト流の精神分析においてはそれは言うまでもなく洞察であり、それは患者の無意識内容の解釈によりもたらされると考えられてきた。しかし現代の精神分析においては治癒機序がかなり「多元主義的」になっている。つまり何がどのような変化を及ぼすのかについては個々の患者のニーズによって様々に異なるのである。米国の分析家Glen Gabbard は、結局治療において生じるのは「無意識的な連想ネットワークの改変」と一言で言いきっている。これはわかりやすく言えば、治療における変化とは、私たちが知らず知らずのうちに繰り返しているパターンが何らかの形で改変されることであるという。そしてそれがどの様な形で改変されるかには、さまざまなバリエーションがあるのだ。ある来談者は治療者に黙って話を聞いてもらうだけでも救われるかもしれない。しかし別の来談者は治療者から積極的なアドバイスを望むかもしれない。また別の来談者は厳しくしかって欲しいと思うだろう。
このように何がその人の無意識的な連想ネットワークを変えるかは予想不可能なことがむしろ普通であろう。ただしそこにおそらくある種の情緒的なインパクトが伴う場合に、それが効果を有する可能性は非常に高いだろう。ただしそれは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれない。でもある体験が記憶として残るために扁桃核による情緒的なインプットが伴わないケースはむしろ考えられないであろう。
精神分析家の村岡倫子は「ターニングポイント」という概念を唱えている。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは治療の進展につながることがある。それが治療の分岐点や転回点turning point となるわけである。
たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。
この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。
この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。
ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。
結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発児を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。