情緒体験の重視
精神分析ではフロイト以来、いかに転移を扱うかについての長い論争が行われて今に至っているということが出来る。フロイトは転移について「患者が抑圧された素材を過去に属するものとして思い出す代わりに現在の体験として反復することを余儀なくされる」(サンドラーp38、フロイトの引用として)と言っている。ジョゼフ・サンドラーはこれは、転移は過去の再現であり、患者が(本人が意識していようとしまいと)分析者との関係において表す「不適切な」思考、態度、空想、情緒を含む。とする。(サンドラー、p54)。つまりここにあげられているのが情緒、感情に留まらないというのがみそだ。
もちろん治療者は過去の対象と同様の対応をすることなく「中立性」を保つことになり、そこで患者はその違いを体験し、またそれを治療者から「解釈」の形で指摘されることになる。そしてここで問題になるのが、それを認知的に理解するか、情緒的に理解するかということである。もちろん情緒が大きな意味を持つと考える治療者もいた。その顕著な例がフランツ・アレキサンダーだった。彼は患者の分析家との体験が、親との体験と異なっていることが患者に変化をもたらす決定的な要素であるとし、それが患者が自分の非適応的なパターンに気が付くことができるともした。彼が出す「ああ無常」のジャン・バルジャンの例はわかりやすいかもしれない。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べに対して司祭が「それは自分が彼にあげたのだ」と答えた。彼が最初は司祭に対して厳しく懲罰的なイメージ(いわば転移)を持っていたとすれば、司祭はそれとは全く異なる対応をしたことになる。これがアレキサンダーの言う「修正感情体験」であり、そこでは情緒的な体験が最も有効と考えられよう。ただしアレキサンダーは患者に対して叱るという対応もここに含めている。治療者との間のある種の情緒的な体験が患者が変化をする際の決め手となると考えたのだ。
この転移を扱う際の情緒的な関りについては、精神分析では「禁欲規則」という原則が存在することにより複雑になる。情緒を扱うことが、患者を満足させることに結びつくことへの警戒の念が抱かれるような文化が精神分析にはあるのだ。私は個人的にはこの問題から生じるジレンマを一番体現していたのがコフートだと考える。コフート理論においては治療者に対する自己対象転移が生じるとされる。自己対象転移とは簡単に言えば共感を与えてくれるような対象イメージを治療者に向けることである。その時しばしば問題となるのが、「治療者は患者に共感を与えればいいのか?」という問題だ。これについてコフートは生前「『治療者は共感すればいいんだ』というのが自己心理学について持たれる一番の誤解なんだ」、と主張していた。「共感をして欲しいという患者さんのニーズを解釈することが大事なのだ」という、いわば公式見解を述べていたが、実際には彼はしばしば共感を実際に与えたことによる治療効果について論じている。心の中では治療者が共感的であることが治療関係においてはとても重要だと考えていたわけだ。しかしそれは転移の解釈が主として持つ精神と齟齬をきたすことになる。分かりやすく言えばこうだろうか。転移の解釈で重要視されるのはやはり認知的、洞察的な側面であり、そこに患者の欲求を充足するような要素はやはり分析的でないという論じ方をされていたのである。