2022年11月9日水曜日

感情と精神療法 書き直し 6

 治療関係における変化と偶発性

治療の進展に関わる要素として、ここまで情緒的な関りについて述べたが、現代的な精神分析理論においてはそれがどの程度妥当なのであろうか?この問題を考えるうえで重要なのは、現代においては治癒機序を考えるうえでの多元主義がますます明らかになっているということである。治癒機序 therapeutic action とは精神分析において何がどのように働くことで患者の心に構造的な変化を促すかという理論である。従来のフロイト流の精神分析においてはそれは言うまでもなく洞察であり、それは患者の無意識内容の解釈によりもたらされると考えられてきた。しかし何がどのような変化を及ぼすのかについては患者のニーズにより様々な場合が考えられる。Gabbard は結局治療において生じるのは「無意識的な連想ネットワークの改変」と一言で言いきっているこれはトートロジカルとさえ感じられる提言であるが、わかりやすく言えば、治療における変化とは、私たちが知らず知らずのうちに繰り返しているパターンが改変されることであるという。例えば自分について評価されると、途端にダメな自分、生きる価値のない自分、だれに好かれることもない自分、というイメージが浮かんできて、一生懸命その評価を否定しようとする人のことを考えよう。なぜだかわからないが、自然とそうなってしまう。あるいは人とかかわろうとすると気おくれがして抑制がかかってしまうという例でもいい。それがどのようなプロセスを経て変わっていくだろうか? おそらくそこにはあらゆる可能性がある。「君は実は自分の優れているところを認めることで人から羨望を向けられることを恐れているのではないか?」という指摘で雷を打たれたように「そうだったのか」となるかもしれない。あるいは治療者から何か具体的な事柄を例に出して、自分の能力を評価されるという体験がその人を変えるかもしれない。このように何がその人の無意識的な連想ネットワークを変えるかは予想不可能なことがむしろ普通であろう。ただしそこにおそらくある種の情緒的なインパクトが伴う可能性は非常に高い。それは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれない。ある種の罪悪感や後ろめたさかもしれない。ある体験が記憶として残るために扁桃核による情緒的なインプットが伴わないケースはむしろ考えられないであろう。たとえコペルニクスが「そうか、天ではなくて地球の方が動いているのだ」という洞察がそれ自身はいかに認知的な洞察でも、それが感動を伴っていたことは疑いない。それは驚きや好奇心や、場合によっては怒りの感情かもしれない。それはある意味では予想不可能な出来事であるもある。

村岡倫子先生の唱えた「ターニングポイント」という概念がある。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは治療の進展につながることがある。それが治療の分岐点や転回点turning point となるわけである。

たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。

この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。

この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。

ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。

結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発時を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。