2019年12月23日月曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 4


A君に不足している「自他の揺らぎ」

このA君の心の働きが見せる揺らぎの欠如として、上述の意味の揺らぎ以外にももう一つの揺らぎについて考えなくてはならない。それが私が「自他の揺らぎ」と呼ぶものである。つまり自分自身としての、主観的な心と、自分を外から見た客観的な心である。
人の心はだれかと対面した時に、ある複雑な心の動きをする。それは自分自身として物事を体験すると同時に、そのような自分を外側から体験するのである。
私たちが町中に出て人目に晒されているとき、必ずこのような体験を持っているはずだ。私たちはまさか下着姿で外出することはないだろう。必ず人目を気にした身なりをするはずだ。若い女性ならスッピンではコンビニにすら行かないという人が多い。それは私たちが外からどう見られているかを常にモニターしているからだ。
だからと言って私たちは私たちそのものであることをやめない。ある考え事に没頭しながら街を歩いている時などは、私たちはおそらく他者からどう見られるかをあまり考えない瞬間が多くなるだろう。しかし人前では自分をモニターする目を時々織り込む。いわば自分という体験が、それそのものとして持たれる部分と、外からどう見えるかという部分との間を揺れ動くのだ。
私が自他の揺らぎと言ったのはそのような心の動きだが、これは哲学でいう即自と対自という体験とほぼ同義である。
ここのところ、時事用語辞典から引っ張ってみる。
サルトルJean-Paul Sartre 190580)によれば、それ自体として肯定的に存在する事物のあり方が即自存在être en soi)であり、それに対して、この即自存在へと否定的にかかわり、自分自身とは区別された対象として定立する意識的存在が、対自存在être pour soi)として規定される。対自存在は即自存在と否定的にかかわるばかりでなく、自分自身から身を引き離すことになる。このような対自存在の自己否定と脱自の構造において、人間の自由が基礎づけることになるのである。」
うーん、あまりちゃんと説明できていない気がするが、まあいっか。
この即自と対自が「共存」、つまり共時的な並列ではなく、「揺らぎ」であることを示そう。あなたが電車に揺られながら、何年か前に、何か恥ずかしい言動をして穴があったら入りたい体験を思い出す。そして思わず「ウワー」とか「馬鹿だなあ、オレは」と口にしてしまう。そしてハッと気が付くと、周囲の乗客が怪訝そうな顔をしていて、あなたはまた恥ずかしい体験をしてしまう。このような場合はあなたは一瞬即自的な心のあり方をして、しばらく対自側に揺らいでいなかったことになる。さもなければ、「人前で声を上げたり独り言を言ったりするとおかしな人だと思われる」という意識は、声を上げそうになる際に即座に戻ってきて自分自身を抑えることが出来たはずだからだ。
さてそこでA君の場合を考える。この自他の揺らぎは彼の中でどのような意味で欠如していたのだろうか。彼がBさんへの映画の誘いのメールをした後の彼女からの断りのメールをうけて、即座に「ではその次の日曜日はどうですか?」という返事を書いた時のことを考えよう。彼はそれがBさんにどのように受け取られるかについておそらく把握できずにいたはずだ。例えばBさんに「この人は何を焦っているのだろう?」「このように畳みかけるようにメールを返すことを迷惑に感じるのではないか?」という懸念はA君の頭には皆無だったか、あるいはあってもごく僅かであったはずだ。もちろんメールを書くときはうちに一人でいるのだから、人前に身を晒す時の自他の揺らぎは体験されないはずだ。しかし他者に読まれるような文章を書くときは、私たちは結局はそれを外側から、つまり読む人の立場から読みつつ書くはずだ。つまり自他の揺らぎを備えつつ文章を書くはずである。そしてその視点が薄いというのは結局対人場面で普段からこの自他の揺らぎを体験するという習慣を持っていないということを意味する。おそらくA君は人と直接会っていても、メールのやり取りをしても、結局この種の揺らぎを十分体験しないことで他人から疎まれるということが起きていた可能性がある。その意味で、この自他の揺らぎの欠如はより深刻と言わざるを得ないのである。