ここでまだこのスイッチの意味がつかめない方のためにもう少し考えてみようとしていたら、アマゾンから「ショージ君の日本拝見」(文春文庫 1976年)が届いた。この本にはショージ君(東海林さだお)が岡先生と会見した時の様子が収められているとネットに書かれていたから注文したのだ。ショージ君は本の企画で、いわば編集者に乗せられる形で、高名な岡先生にインタビューをしにアポなしで奈良まで行ったという。その時の話だが、私はこれを読むのは実は非常に楽しみであった。岡潔が日常生活で見せる人間味あふれる姿がショージ君という庶民性の塊のような情緒的な人間
(そうでないとギャグをかけるはずがないではないか)とどのように交流するのだろうか。しかしその本に描かれていたのは、結局は私たちが臨床や日常で出会う発達障害系の方々の印象とあまり変わらなかった。すなわちその会見は対話という形ではなく、一方的に自分の考えを話し、同じパターンの動作を繰り返し、それを聞かされているショージ君に起きている様々なこと(膝を崩して失礼にならないのかとモゾモゾしていたことや、トイレに行きたいのに長時間我慢を強いられていることなど)に全く無頓着な様子で自分の主張を続けた岡先生の姿だったのである。
ショージ君の描いた岡先生 |
ここには二つのことが見て取れる。一つは岡先生は自分の話に夢中になることで相手が見えなくなっていたらしいということだ。そしてもう一つはそもそも相手が見えない、というより相手の立場に立つことが先生は苦手だったらしい、ということだ。この両者があることで独特の対話(あるいはその欠如)の様子が見られ、それらはやはり相乗効果を及ぼしていたというニュアンスがある。
岡潔がある文章で語っていたのだが、数学はある問題を解決していく道筋が快感であるという。彼は率直に自分が一種の快楽的な体験に従っていることを認める。彼が口癖のように言う、「情緒のもとは頭頂葉だ」という表現は、自分の中に起きていることがある種の生物学的な、脳科学的な原則に従ったものであることを率直に認め、それを語ることに、それこそ快感を覚えているのだということを教えてくれる。然しそればかりではない。彼の視点は例えば自分を外側から見る部分と、自分の話に没入している部分という形での揺らぎをあまり見せないのである。