2019年12月28日土曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 9

通常はパターン重視と曖昧さの許容は同時に起こりうる
  
以上の考察から、私たちが日常他人と交流を行う時の曖昧さの許容ということが持つ意味について論じたが、それは曖昧さを排除する傾向と両立しうるのであろうか? もちろんバロン=コーエンが考えたような極端なシステム化的な脳を持った人の場合、曖昧さに対する耐性は少なくなる傾向にあるだろうが、大抵は両方の脳の使い方を私たちは有しているであろう。そしていざとなったら使うことが出来る共感的な脳を使えることが、発達障害傾向のある人の人生をそれだけ豊かにするのだ。
2018年に読売テレビで「天才を育てた女房」というドラマが公開されたが、主人公は世界に誇る日本の天才数学者の岡潔がモデルとなっている。天才ゆえの大変な変わり者であった岡は、今でいうアスペルガー障害の傾向を十分に備えていた。・・・・とここで私は岡潔先生でも人間味あふれる交流を他者としたという例を探して、それをもとにアスペルガー的な思考と人間的で情感あふれる思考の共存を描こうとしたが、あまり出てこないのである。「天才を育てた女房」をダウンロードしてそのようなシーンを探し出すべきだろうか。三高時代一度も歯を磨かなかったとか、夏でも長靴姿で、暑いとそれを冷蔵庫で冷やして履いていた、などの奇行の持ち主でも、奥さんが諦めずについて行ったということはなにがしかの情緒的な交流があったに違いない。それでこんなシーンを無理やり作った。全くの私の創作である。
ただならぬ風貌の岡潔先生
「そんな岡潔であったが、時々しみじみと奥さんに言ったという。『君には僕のことでいろいろ迷惑をかけているね。済まないと思っているよ。』これで奥方(みちさん)はこれまでの苦労が報われた気がしたという。」(ちなみにネットでは作家の藤本義一氏が岡をモデルとして『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記しているという。さっそく取り寄せよう。)
 実際に岡潔はエッセイなどで情緒の重要性について熱く語っているから、もちろん人の気持ちもわかる素晴らしい人物だったに違いない。その上で私が書きたいのは、バロン=コーエンの言うシステム化的脳のモードと、共感脳のモードをスイッチできることが重要であるということだ。これはシステム化脳によるこだわりが強ければ強いほど難しくなり、周りの人を困らせる。長靴に固執する岡先生は、59才で文化勲章を授与するとき、革靴を履かせるのに家族は必死に説得したという。