まとめ
本章では揺らぎの欠乏としての発達障害というテーマで論じた。揺らぎの欠如ないしは減少は、その人の脳の一つの特性と言えるだろう。そしてそれが極端になった場合に発達障害、特に自閉症スペクトラム障害と呼ばれる。しかしそれはある種の障害とは決して言えないような何かでもある。キャベンディッシュにしても岡潔にしても、掛け値なしの天才なのだ。そして彼らの業績は確かに揺らがない脳の持つ鋭い思考力やそれに支えられた遂行の突破力に関係している。ただしそれらの揺らぎのなさは強いこだわりや相手の気持の読めなさといった問題も伴なっていた。
最後にバロン=コーエンの唱えたシステム化脳と共感的脳の関係性について考えてみよう。両者は排他的な関係にあるというのが彼の仮説であった。結局これは揺らぎとの関連で言えば、揺らぎの欠如と、揺らぎの豊富さとの違いと言い換えることが出来るのだ。そしてその意味では互いが互いを抑制しあう関係性にあることは自明ともいえる。システム化脳は意味の揺らぎをできるだけ排することで本領を発揮する。しかもそれが発揮されている間は彼らは他人から見られているかということに無頓着になる。岡先生などは授業中に一つの問題に取りつかれると、授業そっちのけで夜遅くまで黒板の前に立ち尽くして思考に没頭したという。もう教師としての自分の姿を外側から、あるいは生徒の側から見る方向には心は揺らがない状態になってしまったのだ。その意味で彼らの脳は意味の揺らぎと自他の揺らぎの両方の低下を見せていた。
他方では共感のためには心は自他の間の揺らぎを最大限に使うことになる。自分に対する対自的な視点は結局は相手の心を感じ取ることと同様のことである。そしてそれは遡れば母親が赤ちゃんの心をいかに察するかという問題に行き着く。母親にとって子供の感じていることはかなり直接的に伝わってくる。新生児が泣いている姿を見て、デビューしたばかりの母親は一緒に目を潤ませる。その時母親はすでに子供と一緒になっている。自分の子供への声掛けは、子供が聞く母親からの声掛けと重複している。そしておそらくここに男女差は顕著に表れているのだ。
本来人間のオスは外で狩猟をし、獲物を持ち帰ることを生業としていた。その時追い詰めたウサギに共感していたら仕留めることなどできない。相手は完全に感情を持たないモノでなくてはならないのだ。他方では人間のメスは子供を守り、養育し、その生存率を高めなくてはならない。そのためには子供の様々な感覚のセンサーとなり、そこでの異常やニーズを敏感に察知することが必要だった。
しかしすでに述べたとおり、これらの二つの心の能力は、本来それら自身が揺れ動いていてしかるべきものである。ウサギを冷酷に仕留めた父親は、家に帰れば子供を愛するよき父でなくてはならない。もちろん子供が飼っているウサちゃんを丸焼きにしようなどとは考えない。つまり揺らぎ(+)と揺らぎ(-)との間の揺らぎこそが人間に真の価値を与えるのである。発達障害はこれらのことを考えるうえで極めて多くの示唆を私たちに与えてくれるのである。