ということで少し本題に入る。不可知について述べているのがビオンだ。彼は子供の心のβ要素をα機能によりα要素にする、という理論である。そしてα機能を有する母親が持つべきなのは、赤ん坊へのオープンな受容性であるという。そしてこれを彼はデフォルトモードネットワークと関連付ける。驚くべきことだ。諸外国の分析家は、こうやって脳科学との橋渡しを積極的に行うのである。
それからベルモート先生は不知 unknown不可知unknowableの領域へと話を進める。このことはフロイトの患者の自由連想を聞く態度を思い起こさせる。特に特別のことに注意を向けるな、注意を平等に漂わせよ、という。ビオンはこのフロイトの議論と、彼の言うOへの関心とを結びつける。ビオンは自分自身がOなる変形 transformation “O” を経ることで、患者に自分自身の不可知に触れることを助けるのだという。何というむちゃくちゃな話だろう。そしてベルモート先生は最後に、西田哲学の言う絶対無や純粋体験にヒントを得たといい、それを西洋哲学や数学の概念である無限と関連付ける。
フロイトもビオンも天才である。そして彼らが向かうのは、おそらく人間の知性の最高度のレベルにおいて目指されるものを指摘しているのだと思うが、それはおそらく私たちが行う思考の中でもっとも困難さを伴うもの、精神分析的に言えば転移、逆転移を極力排除した際に見えてくる景色を表しているのであろう。ここで転移、逆転移という言い方をしたが、つまりこういうことだ。
私たちは物事を理解するときに、必ずといっていいほど、自分がこれまで持っていたバイアス、あるいは色眼鏡にしたがってそれを見て、それが真実だと思い込んでしまう。バイアスだらけの、つまり脳の回路の中で使い古し、最も抵抗が少なく思考されてしまうもの、ヒューリスティック、ということになる。私たちが望むべきなのは、そう、ヒューリスティックの罠をひとつずつ外していくことなのだ。ところがこれは矛盾をはらむ。というのはそれを外しきったところには何も見えていない可能性があるからだ。それが不可知ということの意味なのだろう。