2019年1月27日日曜日

不可知なるもの 11

まとまらないままに考察は続く。

 私達は致死性(死すべき運命)との関係で生を十台味わうことが出来ると論じた。それはフロイトが「喪の先取り』として表現したことでもある。そしてそれは日本文化に於ては「もののあわれ」として表現されてきた。この概念については松木邦裕の「在の不在」の概念にも表れている。その不在論の中で松木は在の存在価値は不在の中に現わされると説く(他にも重要なことを言っているが,).これは私が non-action (活動しないこと)という概念を通して示したこととも同類なのである。活動はそれがなされないことにより意味がある(場合がある)。「愛している」が、言葉で表現されないことに意味があるとすれば、それは言語化されることでスポイルされる、あるいは歪曲されるからである。世阿彌が,「秘するが花」と言った時、彼は花が見えそうで見えないことに美を見出した。あるいは長く蕾に隠され、咲く時間が短いことに美の本質があると考えた。それはフロイトが「移行の価値は時間の中の希少さだ transient value is scarcity of time 」と言ったこととも関係しているかも知れない。陰翳による「よく見えなさ」と、一瞬しか見えないために十分に味わいきれないことは関係しているのだろう。儚さには、時間軸と空間軸があるわけである。人の知覚は馴化の運命にある。美しいものは見飽きてしまうために、その美を保つためには一瞬で消えなくてはならない。
 ところで世阿彌が秘すれば花、と言った時、明らかに美を秘するという行動が含むメンタリティを考えている。「恥じらい」と表現すべきだろうか? 恥じらいは、英語にすると shyness と味も素気もなくなるが、慎み深さ modesty となるとポジテイブな意味が加わる。おそらく慎む心そのものに美を見出すところが日本の文化なのだ。そしてこれが non-action という訳である。(どうも日本語には適当なものが見当らない。) そしてこの姿勢は美の価値を保護すると共にそれを提供される側への気づかいも含んでいるのではないかと思う。