2019年1月15日火曜日

不可知なるもの 2


これまで述べたように、私たちは言葉を用いることで、想像力を増すこと、現在の思考を消し去ってしまうこと、分からないことを分かったことにしてしまうこと、などを達成したと述べたが、最後の二つは人の心の防衛機制に深く関与していると言っていいだろう。現在の思考を消し去ることは、抑制とか抑圧といわれるものだ。またわからないことを分かったことにしてしまうのは、置き換えとか合理化とか否認と関係しているかもしれない。
もう少し考えを進めよう。言葉にはそれ以外も役割もたくさんある。それは言葉が字義どおりの意味以外の様々な含みを持つということだ。例えばAさんがBさんに何かのことで謝罪を求めるとしよう。Bさんは「すみませんでした」、という。そしていったんはAさんはそれに納得したとする。ところがBさんが小声でこう言ったらどうだろう。「これで気が済みましたか?AさんがBさんにさらに「心からの」謝罪を求めることに発展することは必定だろう。この場合「これで気が済みましたか?」には、「私がすみませんでした、と言ったのは、心からではなく、あなたの気がおさまるように言っただけですよ」という含みを持つことになる。もちろんAさんが少し変わった人で、そう受け取らない場合もある。「うん、気がすんだよ。」と受けて、特に引っかからないかもしれない。しかしそれは含みを受け取っていない可能性があるからである。
ここで思い出したエピソードがある。30年前にフランスに留学した時、給費留学生としての手続きのために大変な時間を待たされた挙句、ようやくたどり着いた受付の係員に、「この書類に写真が貼ってありませんね。貼った書類をまた持って来てください」と言われたのだが、最後に、「シ・ブ・ブレ」という言葉を係員が付けてきた。英語で言えば if you like であり、「できましたら・・・・」という丁寧な表現なわけだが、「もしお望みなら、とはどういうことだ! バカにしている!」と私はすっかり腹を立ててしまった。係り員も困っただろう。「もし可能でしたら、写真を貼ったものを持って来てください」と丁寧に言ったら、「もし可能なら」とはどういうことだ! と相手にキレられたのだから。言葉の力が弱いと、誤った「含み」を読み込んでしまうという例だ。
言葉がどうして含みを持つかは、おそらく我々の思考が、様々な別の思考のネットワークの中にあるからだ。ある言葉を聞くと、それに関連したネットワークも賦活される。「落ち葉」と聞くと北風の吹く街の情景が何となく連想される。「気が済んだ?」という言葉は、相手をバカにするような状況、捨て台詞で相手を挑発するような状況が連想され、腹が立つというわけだ。少し違った、含みを読み取ることが難しい表現なら少し違った効果を生むだろう。例えばBさんが、「もうよろしいですか?」とか「もう帰っていいですか?」と言ったらAさんはちょっとむかつくだけでおさまるかもしれないし、Bさんもちょっとだけ気持ちを表現できたかもしれない。
言葉の持つ含みは、言葉の象徴性ということに一般化すればもう少し分かりやすいかもしれない。「彼は王様だ」と言っても、彼が実際に国を治めているわけではない。しかし「王様」という言葉の持つ様々な含みが、それが何を表しているかを伝えるというわけである。
さてこの含みという例からわかるとおり、言葉はそれが情動、感情と連動しているために複雑な機能を追うことになる。これまでの言葉の働きを考えた場合、言葉は感情を押し隠したり、別の感情にすり替えたり、感情を含ませたりする。
さてこれらを前提に「不可知なるもの」について考える。不可知なもの、とは面白い言葉である。分からないものに名前を付けてしまっているからだ。しかしこれも言葉や記号の魔術だろう。これは数字のゼロを思い起こさせる。数字のゼロが発見されたのは5世紀のインドだったとか書かれている。そして数学の歴史は紀元前2500年にさかのぼるため、数学という学問が生まれて2000年以上もゼロの概念はなかったという。でも不可知の方がゼロより高度な概念だろう。0なら、その状態を示すことが出来る。しかし不可知の方は、それが不可知であるかどうかさえ不明だからだ。さらに言えば、未知なだけなのか、知り得ないのかさえも定かではない。宇宙の果ては、と問うた場合にそれはどちらの意味で「不可知」かさえも知らない人が多い(私も知らない)。しかし受験生は今取り組んでいる難しい数学の問題の解は、自分にとっては不可知でも、もう解答例としてどこかに印刷され、保管されていることを知っているのである。
不可知の問題の最大のものは、私たちが通常、何が不可知であり、何がそうでないかをほとんど常に曖昧にしているという点にある。