まだまだ納品は出来ないなあ。
2.CPTSDと精神分析的な治療
そもそもCPTSDとはどのような病理なのかについて復習しよう。CPTSDはPTSDという直接のトラウマによる症状とともに、否定的な自己観念と関係性を維持することの困難さに特徴づけられる自己組織化の障害が見られるということである。すなわちトラウマ的な養育環境のために他者との基本的な信頼関係が築けなかった人々を想定していると言えよう。ただしICDの記載によれば「拷問、奴隷、集団抹殺」といった成人以降にも生じうる、ホロコーストでの体験を髣髴させるような災害やトラウマも含む。これは一度は成立していた愛着上の問題が破壊ないし再燃された状態と見ることが出来るかも知れない。ここで留意するべきなのは、CPTSDにおけるDSO(disturbances in self-organization 自己組織化の障害は自己イメージの問題にとどまらず、対象イメージの深刻な障害が伴っていることである。人を信用できない、自分に対して何らかの脅威となりかねないと感じるという傾向は、その人の社会生活をますます非社交的で狭小なものにする。それは対人交流や親密な関係、職業の選択などに深刻な影響を及ぼすであろう。そのような患者との治療においては、比較的安定な関係性を結ぶことそのものが重要な目標と考えられるだろう。
私はトラウマの犠牲となった患者さんに対して以下の5つの項目を挙げて治療を行うことを推奨している。それらは 治療関係性の安全性と癒しの役割、トラウマ体験に対する中立性、「愛着トラウマ」という視点、 解離の概念の重視、 関係性、逆転移の視点の重視、である。これらはもちろんCPTSDにもそのまま当てはまるが、以下に特にCPTSDを念頭に置きつつこれらの項目について個別に論じたい。
第1点は、治療関係が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には忘れられてしまいかねない項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。トラウマを抱えた多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、それを耐えがたく感じて癒しを求めている。そしてそれだけに治療期間の雰囲気、受付の応対、そして療法家の一挙手一投足に大きな影響を受け、場合によっては傷ついてしまう。治療場面が安全で癒しを与える雰囲気を持つことは必要不可欠なのである。
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造の遵守という考え方とは別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。これは治療構造の「剛構造」的な面を優先しない、という意味である。柔構造的(岡野、2008)な治療構造はそのものが安全性を醸すべきものだからだ。
たとえば50分の枠での面接を行うとする。そして何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、解離性の別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、それを最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろう。しかしそれはいわば緊急事態に対応したダメージコントロールであり、その必要性も含めて来談者とその意味を共有すべきものとなり得る。)
第2点は、治療者は中立性(岡野、2009)を保ちつつ治療を行わなくてはならないということである。ただしCPTSDを有する来談者に対する中立性とは特別な意味を持つ。それは決して来談者に対して行われた加害行為そのものに中立的であることではない。つまり「加害者にも悪気がなかったのかもしれない」「被害者であるあなたにも原因があった」、という態度を取ることではないのである。むしろ「いったい何が起きたのか?」「加害者は何をしようとしていたのか?」「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。ただしこのような意味での中立性さえも、患者には非共感的に響く可能性がある。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性が意味を成す地点まで行き着けないであろう。
ここで言う中立性を、精神分析における受け身性と同じものと考えるべきではない。たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては分析的アプローチを保つことに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。