2019年1月28日月曜日

不可知なるもの 12


ここでいきなり話は葉隠に飛ぶ。「武士道といふは死ぬことと見つけたり」。二つの選択肢があれば、四の五の言わず、死の方を選べ、という。人は勿論生きたい。だから必ず理屈をつけて生きる方を選択する。しかし正解はそれを選ばない方になる、というのだ。
これは極端な死生観であるが、これが本質をついていると考えると、こうなるだろう。私たちは自然と生を選択する。左脳はそれを正当化する。生きる、とはすなわち快であろう。花も見せたいし愛でたい。でもそれをしないことを選択する。それは心に留めるということだ。知覚と異なり、表象は本質的に刹那的だ。知覚源がずっとそこにないから持っておくことは出来ない。ある美しい視覚像を思い出しても、それはその視覚像に慣れてしまうことがないのは、それが基本的には一瞬一瞬の体験だからである。表象はその本質が刹那的だからだ。心に置く、ということはある意味でその価値を永遠にする。
ここで急に映画「カサブランカ」を思い出している。リック(ハンフリー・ボガード)はイルザ(イングリット・バーグマン)を欺き、最終的に自分が犠牲になり敵地(カサブランカ)に居残る。その結果としてリックはイルザと別れ、彼女の脳裏にのみ残ることになるが、それは最もカッコいい姿としてなのだ。運命がめぐって二人が一緒に添い遂げたとしたら、お互いに倦怠期を過ごして相手からいかに逃れようと考え始めるかもしれない。お互いにカサブランカの空港で見ていた相手のイメージとは全く異なる現実に晒されることになるのだ。(まあそれも別にいいだろうが。)消える(死ぬ)ことは美を保存するためにはどうしても必要なのである。葉隠も、風姿花伝も、喪の先取りも、言っていることは同じように思える。心にのみ置くべし。知覚して味わい続けることはその対象を損なうことなのだ。でもそれは実は容易ではないことである。人は快を与える物事に浸り、居座る。
 もっと言えば、真実は常に刹那的と言えるかもしれない。ある真実は即座にそれを否定する要素により否定される。だから一瞬しか存在しえないのだ・・・・。