2019年1月23日水曜日

不可知なるもの 7


ところでどうしてここまでに不可知の追求が強調されるのか。一つの考えは、私たち人間が持っている決してあらがうことのできない傾向、すなわち意味の獲得の逆を行く方針だからである。そもそもある事柄の意味は、それが生存にかかわるから重要である。何度も書いたことだが、目の前の生き物が、天敵か、それとも自分が捕食できる「餌」なのか、危険なのか安全なのかといった事柄が意味の原点のはずだ。究極の白か黒か。Good bad か。二極思考は生物の生存にとって不可欠なのだ。パラノイドスキゾイド万歳!すると不可知についての議論はその逆を目指す、本来は不可能な試みなのかもしれない。
ただこの不可知への思考がどうしてもやむを得ない事情がある。生存が意味の追求を要請するのであれば、その逆の死は、無意味への追求を余儀なくされる。それはどういうことか?
死すべき運命 Mortalityと不可知性
死への懸念や恐怖はその不可知性に由来するというのはある意味で理にかなった議論である。それは私たちが死んだ後のことを知りようがないからだ。人は相変わらず意味を追求するが、その結果として私は「無意味の意味」を追求することになる。
最近一つの、非常に小さな「死」を体験した。奥歯の一本が死んだのである。私が望んで殺してもらったので、自死(歯?)である。もう一年前から鈍痛があり、冷たいものの後は一時間くらいそれが続く。私はそれに相当苦痛を覚えた。自歯死は巧妙な手で行われた。まず専門家(歯科医)のもとを訪れ、いかにその奥歯が理不尽に私を苦しめたかを訴え、その命が奪われるべきかを訴えた。歯科医も「やむを得ないでしょうね、やりましょう」と殺歯に同意してくれた。そして歯科医は私が苦しまないように麻酔をしてくれた(それそのものは少し痛かった!)。そしていきなり高音でうなりを発する凶器(ドリル)を取りだし、こともあろうにその問題の歯にいきなり当て、奥にぐいぐい掘り進み、あっという間に中を空っぽにし、何やら糸のようなものを引っこ抜いて息の根を止めたのである。なんという手際のよい殺歯の業だろう? そして私はその仕事が行われている間、じっと奥歯が動かないように押さえつけて逃げられないように幇助した(といってもただ頭を動かさずに口を開けていただけである)。 
ということで何が言いたかったかというと、私の歯が死んだことで、私は痛みから解放されたわけだが、最初は「痛くなくなった歯」として架空の存在を誇示していた歯は、痛みがなくなったということに私が慣れてしまった今では、その存在は完全に消えている。それは最初からなかったのと同じになっている。私の歯は殺された苦しみを味わっていない。もうわずかな根元を残してそこに存在しないのだから。そして人の死も全く同じ運命をたどるはずである。別に私の歯の例をわざわざ出さなくても分かりきっていることである。
しかしそれでも私たちは自分に意識があり、魂があると実感している。だからそれが消えるということが「主観的」にはどのような体験になるかについては、永遠に知りようがないのである。私が死んだ後のことを考えても、「死んだらあなたがいなくなるだけだよ」と言われるだろう。そしてそれは私の無くなった歯と同じ運命をたどるということなのだ。しかし自分という体験を(多分)もともと持っていなかった私の歯と違い、私は私という体験を持っている。だからこそ、それがなくなった体験を知りようがない。あえて想像するとしたら「無」を体験するわけだが、そもそも自分がどうしてこの世にいるのかわからないから、それが存在しなくなった時のことも考えようがないのである。このように考えると、本当に不可知なのは、私は誰なのか、ということになるだろうか。それが不可知の根源であるように思われる。そしてそれは私たちの持つ死すべき運命のために浮き彫りにされるのである。