ここら辺のフロイトの真意を知るために、再びフロイトの原文(と言っても英訳だけど)にあたってみた。フロイトの「on transience」は、「ゲーテの国」という本に収められた短いエッセイであるが、の真意は何か。フロイトはこんなことを書いている。すぐ消えるからと言って美が損なわれるという理屈は全然わからないね。だって自然だって人間の美だって、また新たに生まれ変わって新しい美を作り上げるじゃないか!」これでは結局美は永遠なり、ということを言っているように聞こえる。だって心に残った美は永遠ではないか! それはその作品がやがて朽ちていくこととは対照的なのだ。そしてそれが目の前から失われることで、その在を主張するのである。昨日のワンちゃんの例のように。逆に言えば美はそれが目の前から消滅することで初めて、その在を浮かび上がらせるのだ。
私は数年間で両親を亡くしたが、彼らは記憶に鮮明である。でも一番思い出すのは私が子供の頃の親である。一番彼らが彼ららしかったのはやはり若い頃だ。その時してもらったことをはっきり覚えている。たとえばある朝珍しく近くの駅まで車で送ってくれた父親が(普段は二キロ半の道のりを自転車通学である)、私の財布をのぞいて「なんだ、これしか入っていないのか!」と言って百円玉をいくつかポンと入れてくれたのを思い出す。おそらく小学校2年くらいだっただろうか? 私の財布には数十円くらいしか入っていなかったはずである。)その頃の50円玉や100円玉は今よりずっと大きく、ありがたかった。あの瞬間の父親の優しさはかけがえのないものだった。(たった100円で一生分の思い出! すごい費用対効果!)父親はもう灰になってしまったが、私の記憶は永遠だ。いや待てよ。私もやがて死んでしまうから、その記憶は消えてしまうではないか? まあこのブログに残されたとは言えるが、もちろん永遠とは言い難い。でもここで大事なのは、私の「記憶は永遠だ」という気持ちは、死後にも外装しているということだ。実際に、ではなく感覚として。日本人は桜を愛でるが、それは桜が散っていくのを目にして、一生懸命心の中の桜を散らさずに保っておくという作業を強いられることに関係しているのではないか。そう、散ることにより心の中の美は永遠となるのである。