この魂は永遠であるという感覚は不思議である。もちろん自分が消えることは分かっている。それどころか魂などはファンタジーであることもわかっている。それどころか「たった一億年」経ったら人類の何かの原因で滅亡して、地球上にはペンペン草くらいしか生えていないかもしれない。でも今私がここである父親のイメージを持っていたという事実は永遠に消されることがないのも事実である。そうか、そういうことなんだ。
もちろんこの事実は永遠に残るという考えそのものが人間の心の産物であり、不確かなものにすぎないという議論が成り立つ。ただ一つ言えるのは私たちがある種の信念 belief を持つとき、その強度は私たちの命がいずれは失われていくというはかなさの感覚に裏打ちされているのであろう。その強度は儚さの自覚の分だけ増すのだ。
この問題について扱っているのは私の友達であり分析家の富樫公一さんだ。彼はもののあわれや無常について論文を書いているが、そこでは政界の不条理や偶発性をいかに人生に組み込むかということがテーマにしている。これもまた例の存在論的な二重意識という文脈に組み込まれるだろう。
あれ、二重意識についてまだ触れていなかったか? このブロクでも何回か紹介したように、いま現在の生を、死すべき運命に照らして体験するという意味である。私たちの生は、フロイトの言う「喪の味見 foretaste of morning」により価値を与えられる。
ところでこの論文はやはり富樫さんも狙っているように、他者の不可知性にフォーカスを絞ることで治療論としても意味を持つだろう。他者が永遠の可能性を持っていること、その意味で不可知であることと、それを背景にして自分が相手を信じることはやはり弁証法的な関係を有する。他人を知るということは知らないということを知るということ、目の前の他者に出会うことは、その他者が明日にでも別の人になってしまうことを認識することにより可能となること。桜はそれが散るからこそ今の姿は永遠であるということと重ねることが出来るだろう。
そろそろまとめなくてはならない。明日からにしよう。とにかくこのままでは全く論文の進む方向性が見えていない。