抄録)
フロイトは無意識を探求し、その内容を明らかにし、言語化することの重要性を説いた。しかし現代の精神分析家たちは心の中にあって知りようのないもの、言葉にならないもの、あるいは不在なものへの関心も高めている。ビオンが欲望なく、記憶なく、という言葉を残したように、不可知なるものへのアプローチには、発見され発掘されるべき真実の存在を前提とするのとは異なる姿勢が要求されるようである。しかし不可知に対するアプローチはそれを知りたいという欲望に根ざしたものになりかねない。それはある意味では不可知であるものの価値をスポイルする結果に繋がらないだろうか? 真実の探求を目指したフロイトは、実はその不在にこそ意味を見出そうとしていたことはあまり注目されていない。「無常について」(1916)においてフロイトは「常ならぬtransientもの」に美を見出し、それがやがては消えてしまうからこそ、そして「喪の前触れ foretaste of mourning 」を伴っているからこそ価値があると説いた。美はそれが刹那的でやがて失われるからこそ美しいというのである。そしてフロイトは直接触れていないが、それは人生の価値についても同様の示唆を与えていると説いたのが、米国の分析家ホフマンである。ホフマンは死を背景にすることで生の価値が生まれると主張したのである。
ところで日本の文化は同様の価値観を公然と持つ極めて異色の文化である可能性がある。そこでは曖昧にすること、隠すことにある種の美や価値を表現してきた。そしてそれは武士道の教え(葉隠)に見られるように、命を惜しまないこと、滅びることに価値を追求するような自虐的な側面を有していた。しかしそれはまた精神分析が追求する一つの価値観へと通綴していることが興味深い。それは対象を内在化し、保持することの価値である。そして時にはそれは対象との別れや死別によりより深化することすらある。同様の文脈で日本の分析家北山は儚さに美を見出し、松木はそれを「不在の在」として言い表している。
現代の私たちの直面する現実は、何が可知で何が不可知かすら分からないほどに混沌としている。喪失や不在の苦しみは常に身近にあり、いつ襲ってくるか分からない。しかし私たちは喪失や不在が生み出す美や価値を受け取る力をはぐくむことで、それを代償することが出来るのではないか。そして不可知は不可知のままであることで豊かさや創造性の源泉となるのではないか。これからの精神分析は解釈にだけでなく、あえて解釈を行わないことにも意味を見出すことで、その重層性を増すのではないかと考える。