2019年1月22日火曜日

不可知なるもの 6


これまでの議論から私が思い出すのは、乳幼児における 「amodal perception アモーダル(無様式の)知覚」という概念である。赤ん坊は目隠しをしていろいろな形のおしゃぶりを口に入れると、そのおしゃぶりを口の中の触覚で体験したにもかかわらず、目の前におかれた同じおしゃぶりを視覚的に認識することが出来る。Amodal というよりは cross-modal (様式横断的な)ということだろう。赤ん坊は世界を認識するときは全く白紙の状態と言っていい。参照枠がないからだ。純粋体験ということを突き詰めていくと、赤ん坊の原初の体験以外にないということになる。それこそ記憶なく、欲望なく、という状態に近い。もちろんそんなことを書いているものを読んだことはないが。
考えてもみよう。お乳を吸った赤ちゃんが「お乳だ!」と「わかる」、認識するためにはお乳という体験が先行しなくてはならない。すると最初の授乳の体験は「これからお乳を吸うぞ」という心の準備や先入観なしに起きることになる。そしてそこから体験することは最初は本当の意味で unknown ということになる。それが「純粋体験」であるとするならば、人は言葉を覚えて以降は、そのような体験を決して持てなくなる。自分が吸った母親のお乳が、昨日のそれとはかなり成分が異なったものであっても、「同じオッパイ!」というバイアスのかかった体験の仕方になるのだ。もちろん同じ母親のお乳でも、その成分は毎回微妙に異なるだろう。あるいは自分の知っている母親は、実は毎回少しずつ気分が異なっていて、見た目だって同一ではない。あるいは少なくとも、昨日よりは一日老いた母親ということになる。その意味では現実は常にunknown であるにもかかわらず、私たちはそれを知っていることにしてしまう。こうして unknown なものを知っている known ものとして体験してしまう。本当は現実は、それこそ赤ん坊以外の人にとっては unknowableなのに、それをそうとして私たちは体験できないのである。
回りくどい話だが、急いで注釈。実は本能や遺伝子情報は、赤ん坊の純粋体験をそうではないものにしている可能性がある。それは下等な動物を考えれば明らかである。カンガルーの赤ちゃんが一生懸命母親の乳首を求めて、生まれて初めてたどり着いた時はおそらく「懐かしさ」や「求めていたのはこれだ!」という感覚を呼び起こすのではないか。あたかもすでに知っていたような感覚のはずだ。とっても全くの私の想像であるが。皆さんも見事な円形の巣を作るフグの仲間のことを知っているだろう。初めて作った時、「ちゃんとあれが出来た!」と感動するのではないか。(まったくの空想!)