2019年1月13日日曜日

不可知なるもの 1


不可知なるもの
Unknowable, mortality and psychoanalysis

「不可知なるもの、死すべき運命、そして精神分析
  -フロイトは私たちによく死ぬことを教えてくれたか?」

しかしどうしてよりによって、どうしてこんなテーマについて考えなくてはならないのだろうか? まあ、深い事情があるのである。去年はルーディ・ベルモート先生との出会いもあったし。
しかしそれにしても世の中は不思議なことばかりである。一番よくわからないのが、人はどうして真実を語らないのか。あるいは正しく言い直すのなら、「人はどうして真実を語らないで平気でいられるのか?」世の中は、人が真実を語らないことで回っていっているようである。スランプさんなど、「フェイク・ニュース」と決め付けることで、都合の悪い報道を一刀両断である。某隣国との応酬もよくわからない。ビデオまで作成してしまうのである・・・・。

私は最近確かなこととして思うのだが、言葉(まあ、記号、表象、なんと呼んでもいいのだが)は明らかに物事を表すと同時に、偽るものとしても出来上がったのだ。いや、もちろん最初はある事柄を指し示すものとして生まれたはずである。しかし途端にそれは物事を偽る、あるいは押し隠すという機能を帯びてしまった。言葉の発生はおそらく同時多発的におきたのであろうが、人間はある時期、ある時点で言葉を話し始めたときからこの問題に直面したはずだ。最初は簡単な名詞だったろうか? 太陽、山、川、食べもの、あたりか。いやそれよりも「大変だ!」「逃げろ!」のほうが先だったかもしれない。次は「了解した」「いやだ!」「ごめんなさい」あたりではないか?「俺は怒ったぞ!」「愛してる」などはずっと後になってからであろう。というのも情動を表す言葉より以前に、行動がそれを表していただろうからである。「予定調和」、とか「形容矛盾」なんてずっとずっとずーっと後だ。
そして言葉の出現とともに飛躍的に伸びたのが、想像力だろう。なぜなら誰かが「明日、狩り」ということで、今現在起きていることや考えていることを離れて、明日に狩を行うということを思い浮かべるようになるのであるから。あるいは空が曇ってきたときに誰かが「嵐!」と叫ぶことで、これから来るかもしれない嵐や、すでに過去に体験した大嵐のイメージが突然よみがえることになるからだ。
このように言葉はハイスピードで人の思考内容をどこかに誘ってしまう。そのときに一部の人は理不尽さを体験したに違いない。「あれ、今思っていたことはどこかに行ってしまった・・・。」言葉は今の体験をただ消し去るだけではない。別のものを強引に置き換えることで、今の体験をどこか遠くにおいやってしまう力を持つ。そこには私たちの持つ記憶のメカニズムが深く関連している。作業記憶は小さいテーブルのようなものだ。そこはとても狭く、同時に沢山のものを置けない。その小ささといったら、数字7つくらいで埋まってしまう。「ある7桁の数字を一分間覚えて置くように」、と言われただけでそれまでそこにあったものが押しのけられ、7個の数字で一杯になってしまう。それまであったことは強制消去である。もう跡形もなくなってしまうのだ。
この言葉の魔術のもう一つのすごいところは、わからないことをわかったつもりにしてしまうことだ。人は、というより動物は今ここで起きている出来事がわからないことに強烈な不安を感じる。たとえばアフリカのサバンナで、あるインパラが何か得体の知れないかすかなにおいや音を感じたとしよう。その正体がわからないことに不安を掻き立てられたその個体は、おそらく迫り来る天敵をいち早く察知することで、そうでない個体よりは生き延びるだろう。だから生存競争を生き延びてきた私たちがわからないことに不安を覚え、それを説明することに躍起となるのはむしろ当然のことなのだ。するとたとえば夜に小屋の外から聞きなれない音がしたとき、「何の音か?」「猪?」(干支にちなんで・・・)と聞き耳を立てた際に、同居人の「風の音だろう」という説明はある種の安堵感を与えるだろう。もちろんその同居人が頼りにならなければ安堵を覚えることはできないだろが、頼れる誰かの一言なら、不安も和らぎ、再び眠りに付くことができる。本当は風の音ではないかもしれないという思いが半分は残っていたとしても、「風の音、ということにしておこう」と思えることで音の原因を「わかった」ことにするのである。この力はすごい。