2019年1月24日木曜日

不可知なるもの 8


ここで精神分析家のホフマン(Irwin Z Hoffman)の理論をひこう。ホフマンは死すべき運命の問題は私たちの思考や言語の使用に密接だという。というより抽象思考がすでに死すべき運命を前提としているという。なぜなら抽象思考はその中に無限の概念を含みこんでいるからだ。本当かな?たとえば椅子、という概念はすでに具体的な、あの椅子、この椅子を離れている。固有名詞と一般名詞はそれが決定的に違うのだ。  
それと同じように、とホフマンは言う。私たちの生は無限を背景にしている。私たちの死すべき運命や刹那性は、宇宙の無限の存在と持続との間にコントラストが成立している。そして私たちが自分たちの生を十全に生きるためには、この私たちの生の持つ弁証法的な性質に常に気づいている必要があるのだ。
フロイトは「無常について」(1916)という論文の中で、死生学についての見解を述べているが、とても意味深い。これも不可知論に関係してくる。フロイトは詩人や芸術家の友人が、作品の刹那性がその価値を減じると言ったことに触れている。それはそうであろう。自分の絵が年月と共に劣化し、絵の具が退色したり剥がれたりすることで芸術的な価値が損なわれると考えるのは自然だ。ところがフロイトは、「移ろいやすさの価値は、時間の中の希少性だ transience value is scarcity value in time」と言っているのである。それが永遠に続かないからこそ美しい、とフロイトは言っているのだが、彼はそれを喪の予兆 (味見) "foretaste of mourning"(p.306)という言い方をしている。ホフマンによれば、ここでフロイトが言っているのは、人は死の予感によりその人生に価値を与えるのだということだという。
なるべく身近な例を挙げて考える。ペットの犬がいる。いつも一緒にいるとそれが当たり前になる。一緒にいて楽しいのか、煩わしいのか分からなくなる。そのペットがどこかに45日雲隠れをする。時々家を出てほっつき歩き、また返ってくるということが以前にもあった。今度もそうだろう。しかしそのような不在の時間を通してしか、その犬の自分にとっての存在の意味は分からない。いなくなってから「もっと可愛がっていればよかったのに」などと思う。あるいはまったく逆かもしれない。犬がいなくなってホッとしている自分に驚くかもしれない。ともかくあるもの () との本当の関係 (ありがたみ、と言ってもいいだろう) は、その不在を通してしかわからないことになる。そして犬が戻ってくるときに、あなたは自分とその犬の関係をより深いレベルで分かったことになるだろう。