第一点の前に挿入である。
第0点は、治療場面が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には抜け落ちてしまいそうな項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、その癒しを求めている。そしてそれだけに受付の、あるいは療法家の一挙手一投足に影響を受け、傷つく。私は普段愛想がないほうで、多くの人に失礼な態度を取っているだろうと思う。(自覚あり。)しかし臨床をしている時は身が引き締まる思いである。それはクライエントが抱えている「そっと、大事に接して欲しい」というニーズがよく感じ取れるからだ。(それでも失礼なことを思いがけず言ってしまい、相手に憤慨されたことは何度かある。)
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造という考え方とは別個で、別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。もちろん治療者が治療構造を剛構造的に考えていれば、という話である。たとえば50分の枠での面接を行うとしよう。何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろうが。)
ここで必要なことは何かを一言で言うならば、トラウマを経験している来談者の身に成り代わり、そこで必要なものを提供するということである。場合によっては●●も××も提供する必要が生じる事だってあるだろう。(ここは伏字にしておこう。)