2019年1月19日土曜日

不可知なるもの 4


 ここで脱線だが、最近私がよく考えるようになっているのは、いわゆるヒューリスティックという概念だ。私も最近まではその重要さが分からなかったが、ようやくその意味が分かるようになった。ダニエル・カーネマンが、「速い思考、遅い思考」という概念を提案して注目を浴びているが、要するに私たちは行動するにあたってゆっくりと合理的な思考をすることが、時間的にも、感情的にも制限されている。理論的に、ではなくヒューリスティックな思考に流されるのが人間の性なのだ。そしてこれは、例えば国と国の間での対立の時なども容易に表れて人々の心を惑わす。どちらが先にどちらの領空を侵犯した、などという時は、その映像が残っていたとしてもお互いが反対の意見を言い合う。これはこの文明が進んだ社会でも全く同じだ。だって証拠として当人の音声が流れていても「私の声に似ているようですが、よくわかりません…」と言い逃れることが出来るのだ(どこかの国の国会での話)。アメリカではスランプさんが、自分に都合の悪い報道に対しては「フェイクニュース!」と切り捨てるし。私たちは自分にとって都合の悪い現実を突きつけられると、そこでロジカルな思考の代わりに、反射的にヒューリスティックな判断に頼ってしまう。そうしてこの世は回っているのである。何が言いたいかといえば、自分が思考や議論の対象にしているものが本当は不可知であり、それをあたかも知っているように扱っているのか、それとも本当に知っているつもりなのか、という議論は、その大部分がほぼ永久に問われないままに時間が経過していく。そういう社会に私たちは生きているのである。そしてそれのこの上ない潤滑油になっているのが、私たちが用いる言語なのである。
しかしこのことを知った時は私はショックを受けた。この年になるまで自覚しなかったなんて。「正しい方が最後には勝つ」という無知な考えはもう捨てているつもりだったが、正しい主張が勝つ保証は全くなく、人のヒューリスティックな思考にアピールする主張が「勝つ」ということは、おそらくどんなに社会が成熟しても望めないとしたら、私たちは何に望みをつなぐことが出来るのだろうか? 学問、特に人文系の学問に未来などあるのだろうか、と真剣に考えてしまう。そして臨床の場では相変わらず次のような言葉が聞かれるだろう。「君は自分を偽っているんだよ。」あるいは「自分の本心をさらけ出してごらん」
「それは甘えでしかないね。」