例えばこんな例を考えよう。「君は自分を偽っているんだよ。」あるいは「自分の本心をさらけ出してごらん」言葉を話し始めたころの私たちの祖先にはおよそ想像もつかない言葉かもしれない。そして言葉を持つ以前の私たちの祖先にはあり得ない思考。しかし私達は心理療法などでこんな言葉を常にはいている。先輩後輩関係、師匠と弟子関係でも聞かれるだろうか。ともかくもこの表現には、どこかに本当の自分があり、それはまだ発見されていないか、あるいはすでに述べたような方法により回避され、無視されている、というニュアンスがある。この「本当の・・・」あるいは「真の・・・」という考え方は、実は不可知の問題とも直接的に絡んでいる。物事に真実の姿を見出すという考え方は言葉を覚え始めた私たちがしばらくして「物心がついたころには」、つまり自意識が芽生えたころには存在していたであろうからだ。
これに近いのがプラトンのイデア、ないしイデア論だろう。ウィキ様をちょっと引用すると、
「ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした」思わず眩暈をしそうではないか。
本当の心があるもないも、それがなければそもそも何事も始まらない、という勢いである。少し飛躍するかもしれないが、これは実証主義positivismと同質のものだと考える。実証主義が形而上学を排するとすれば、イデア論も形而上学ということになるだろうが、どちらも「はっきりとした、これしかないもの」を求めるという点では一致しているように思う。不可知なものunknowableに対して、まだ知られていないがそこにあるもの yet to be known、という決め付けをするという点で。後者の場合は、「君にはわからないかもしれないが、私には見えるよ。」ということで、相手に対しての威圧となる。そしてそれは経験者が、あるいは年長者が良く用いる言説でもあるのだ。ところが人間の本心など、そこにあると証明できるものではない。ウィニコットが真の自己 true self についてincommunicado
(連絡が絶たれている)と表現したとき、それはそこにあっても知られない、というよりはそもそも知りようのないものというニュアンスがあったわけだ。しかしそれについて私たち人間はそれを知りようのないものとして扱うということが日常生活のレベルではおそらく出来ない。何かを代入しておかなくてはならないのである。
たとえば明日自分の住むところに大震災が起きて、社会の機能が一時的にではあれ停止してしまうかもしれない。明日は不可知なのである。でもそこにとりあえず「いつもの日常」を代入することで私たちは生きている。これはつまり不可知をそれとして扱っていないことになる。あるいは隣人のAさんについて、「彼は○○な人だ」というイメージを持っている。Aさんの本当の姿など分からないが、一応「○○な人」という決め付けによりその人とのコミュニケーションを保つ。そうでないと他人は皆怖くなってしまう。その意味で私たちが不可知をそうでないと扱うという力は実は極めて重要なのだ。それが失われると、私たちはそれこそ精神病状態に陥ってしまいかねない。世の中のすべての人が自分を落とし入れようとしているという世界観である。彼らこそ真の世界の姿を捉えているのかもしれないのだ。