2023年5月16日火曜日

社会的トラウマ 1

 社会的トラウマ (精神分析という社会に生きること)

  私たちは臨床をしていても、決して個人としてだけでなく、精神分析の世界でトレーニングを受け、その中で教育を受けて育った治療者としてかかわっていることは確かである。その時よく私が言うのは、もし自分が一人で自由に臨床をしていいとしたら、そして誰もスーパーバイザーがいないとしたら、どうするだろうかをを考えるべきだということだ。私はいつもこの思考実験をするようにしている。なぜならそれは私がいかに精神分析的治療≒正しい精神療法という考えに捉われているかが、改めてわかるからである。
 私達は否が応でも社会に生きているわけで、さまざまな前提ないし思い込みassumption にどっぷりつかっている。文化の影響はまさに体に染みついているという所があるのだ。
 私が社会に生きているということは、ほぼ常に自分とは異質の考えとどう折り合いをつけるかの問題を扱っているということである。私が考えること、私が当たり前だと思っていることは、ほとんど常にそれとは異なる「他者」の考えとの間に軋轢を起こす。
 それは例えば30年以上連れ添っている配偶者との会話のレベルですでに起きている。言語的なコミュニケーションの行き違いは日常茶飯事である。
 私が配偶者に、「今日は大変だね。」と言うと、「何のこと?」と返されるかもしれない。私の中には「昨日話したことについてであることは明らかなのに、どうしてすぐに通じないのだろう?」という気持ちが湧くかもしれない。ところが逆の立場で同じこともまた生じる。つまり私が「今日は大変ね。」と言われて、何のことかわからないことがある。その時「何のこと?」と聞かずに「そうだね」で終わらせてしまうこともある。「あのことを言っているのだろうな…」と思いつつ確認はしないわけだ。こうして日常レベルでの会話はかなりの曖昧さとお互いの理解の齟齬をのこしながら行われる。
 興味深いのは、私と配偶者は実に様々な事柄に関して意見が一致しているはずなのである。少なくとも共有している様々な事柄については、「現状のままでいい」と思っているはずだ。しかしそれでも結局は相手のことを「分からない」という感覚を持つことが多い。一緒に暮らす時間が長くなるほど宇宙人に見えてくるということが起きるのだ。それにもかかわらず、たまたま知り合った人と趣味の話で一致して「私の気持ちをどうしてこんなに分かってくれるのだろう」と思ったりすることがある。
 一般に言えることは、私達はあることを誰かと共有していることが分かると、それをすぐに忘れて、関心事はすぐさま、その上でもやはり違っている事に向けられるということだ。人にしてもらっていることは、すぐに当たり前になるという原則とよく似ている。私達は「他者」にわかってもらいたいし、多くのことを与えて欲しい。そして分かってもらったりしてもらったりしたことはすぐに当たり前になり、「もっと」の状態になる。

ちなみに最近「もっと!」という本を読んだ。私達の心の基本的な性質、つまり得たものは当たり前になり、まだ得ていないものに関心を向けるという性質は、結局「ドーパミン」の仕業だという。これは大事な視点だ。