2023年5月30日火曜日

学派間の対立 2

 私自身の例

私はそれこそ今ではクライン派の考え方が仮想敵のようになってしまっていて、我ながらとても不幸なことだと感じている。でも考えてみればあながち自分のせいばかりとも言えない気がする。こうなった事情をもう少し分析したい。

私が1987年に渡米する時点でクライン派に対する特別な感情は全くなかったといっていい。むしろその頃はクライン派といえば岩崎徹也先生だった。先生は米国のカンサス州のメニンガー・クリニックに留学して学ばれ、そこで出会ったクライン派の分析家に影響を受け、クライン理論の説明書(ハンナ・スィーガル著「メラニー・クライン入門」を訳された。そしてその翻訳の後にこの種の本としてはとても長い改題(解説)を付けられた。私たち精神分析を学ぶものはこの本を頼りにクラインの理論の大枠を知ることが出来た。ちなみに岩崎先生は今年の3月末に88歳で逝去された。彼の慈愛に満ちたまなざしを今でも思い出す。私は時には厳しい小此木先生とはかなり異なった柔和な岩崎先生の講義がとても好きであり、したがってクライン派の理論にも(もちろんその当時理解することが出来た範囲であるが)とても興味を覚えたのである。

その後私も岩崎先生のかつての留学先と同じメニンガークリニックに1987年に留学したが、その頃はメラニー・クラインの理論を信奉する分析家はメニンガーには殆どいなく、その代わりに自我心理学を学んだ先生方が多くいらした。そして病棟に出入りし、グループミーティングに参加し、またウィークデイの夜になって開かれる学術集会に参加して、そこにアメリカ各地から招待される様々な学派の分析家の理論に触れることになった。そうして自分の価値観やセンスに合った理論を選択していったという事情がある。

このプロセスで少なくとも、私の場合は学派を選ぶ際にラクロスかテニスか、どちらにしようか・・・・という選択はしなかった。もっと切実なものだったのである。その頃私はサイコセラピーのケースを持ち、また自分自身も分析を受け、様々なケース検討会に出席することにしていたが、結構いろいろな場面で憤慨することが多かった。例えばケース報告を聞いていて、「どうしてこの患者に対して治療者はそのような言葉をかけるのだろう?」などと考えることはよくあったのである。しかしおそらく最も憤慨することが多かったのが、患者に対して行っていた精神療法のスーパービジョンであったと思う。セッションで患者が言ったことA対して、私がある言葉Bを返す。そしてその患者がCという反応をしたとしよう。それを聞いたバイザーから待ったがかかる。「どうしてBという言葉を選んだんだい?その目的は?」「ここはDという介入をすべきであろう」「どうしてそこでEについて質問しなかったのか?」

それらはアドバイスというよりは断定に近い言葉でもあった。それらのもちろんそれらの指摘の多くは私にもその通りに思え、自分の治療者としての力不足を痛感するということがあった。ところがどうしてもバイザーの言葉に納得できないことも出てくる。私はそのようなときはかなり徹底してバイザーと議論をしたものだ。そして私が納得しがたいような介入が精神分析的な理論では適切であるということを知ったときは、その理論は正しいのだろうかと疑うことも少なくなかった。「ここでそんなことを言われた患者はどう思うだろう?」と考えたり「私にはとてもそういう応答はできません。」と言ったりすることもあった。

今から思えば、つたない英語でよくメニンガーのベテランの分析家たちにかみついていたと思うが、これは自分の性格の特徴として受け入れるしかなかった。これは気弱であることとは別の話だ。私にはそれが分析的な理論に従う以前に、患者に伝えるべきこと、むしろ伝えるべきでないことと思えることが多くあり、従来の分析的な理論やそれに基づいた介入の中にはどうしてもしっくりこないものがあることも分かるようになってきた。私はフロイトの理論のあることについては納得し、別のことに関してはかなり強いアレルギー反応を覚えることがあったのである。

ふと学派を選択することをワインを飲み比べることになぞらえたくなった。ワインを飲んだことがない人は、異なる種類のワインの区別がつきにくく、どちらがおいしいか、といったことはわからないであろう。ところがいろいろなワインを味わううちに、それぞれを識別できるようになり、それと同時に自分の舌にどの程度合うかということが決まってくるだろう。そして多くの場合、これが自分に一番合っているワインだというものがいくつか決まってくるかもしれない。

私にとって学派を選択することとは、かなり明確に自分の臨床的な舌に合うか合わないかが問題となるように思えるのだ。