2023年5月22日月曜日

社会的なトラウマ 6

 真の意味で男性目線からの議論の少なさ

  男性性の加害性についての議論は、常に中途半端で終わる傾向にある。そしてその一つの理由は、それがおそらく男性の側の誠実さの欠如により、徹底した議論がなされていないからではないかと思うのである。その様な中途半端な議論の一つを例にあげよう。
 ある女性は露出の多い服装をして街を歩くことで男性から声をかけられ、それを迷惑に感じる。あるいはそれが男性からの性被害に発展することになる場合がある。その時に必ず起きてくる議論が、「もちろん男性が全面的に悪い。」「しかし女性の側に隙はなかったか?」という議論だ。この議論の行き着く先はいくつかあるが、その一つは以下のA,Bのような意見の共存である。

A:「では女性は安心して自分が好きな格好をすることは出来ないのか?その様な社会はオカシイのではないか?」である。これはこれで全く正論である。そしてもう一つは男性の「劣情」に関するもので、次のようになる。

B:「女性の露出が多いと、それだけ男性の『劣情』が刺激される。それも考慮されるべきではないのか?」

このA,Bは真っ向から対立しているわけではないが、微妙にずれている。そしてどちらもそれなりに正当性があるために、両者は結局は存続し、この議論はこれ以上は深められないのである。特にBは、男性の側からすれば分かる議論であるが、決して主張され続けることはない。なぜならそれが男性に備わった生理だと開き直る口実を与えてしまうと言われかねないからだ。
 しかし現実にはどうなのか。女性の方は男性からの性被害に遭わない様な最大限の努力をするのが普通であり、実際に夜遅く人通りの少ない道を歩くことを回避するとしても、そのたびに「私は好きなところを好きな時間に安心して歩くことを許されないのですか?」と文句を言わないのだ。そして結局は性被害が起き、「被害を受けた方にも誘因がある」という議論が蒸し返される。
 この終わることのない議論の問題の一つは、男性の側から、男性のセクシュアリティについて「誠実に」、すなわち自らの体験に基づいて、その責任の一端を感じつつ論じる人たちが少ないということだと思う。
 

私の極めて乏しい読書歴の中で、男性のセクシュアリティについて、誠実に語っている人の一人が森岡正博先生である。彼の「感じない男」(ちくま新書、2004)はその様な本なのだ。彼は私が体験的に、ある意味では適当に書き始めている問題について学問的に追及してくれている。普通男は自分の性について書かないものだ。だからこそ彼はとても勇気ある学者なのである。