2023年5月14日日曜日

連載エッセイ 3 推敲の推敲 2

 AIは少なくとも【心】である

そこで私は括弧つきの心、すなわち【心】という概念を提案したい。もしもっともらしい受け答えをしてくれる存在があれば、それは心もどき、という意味で【心】と呼んでしまおうというわけだ。【心】は正真正銘の心とは違う。でも【心】の存在は受け入れざるを得ない。それに現在のようなAIが出現する以前から、私たちの生活にはすでに【心】が入り込んでいるからだ。何かの応答をしてくれるものに対して、本来人間は心の萌芽のようなものがあると錯覚する傾向にあるのである。

かつて精神病理学者の安永浩先生は「原投影」という概念を提示された(安永, 1987)。その説によれば、人は原始の時代からすでに、自然現象や身の回りの物事に関して、それが心を宿しているものとして扱う傾向があったのだ。安永先生はそれを「原投影」と呼んだのである。私たちの祖先は天にも地にも、雷にも嵐にも、動物にも樹木にも一種の神の存在の証を感じていたのだ。いわゆるアニミズムである。そしてその投影の受け手としては、AIである必要すらなかった。ちょっと振り返ってみれば、それは私たちが日常的に行っていることでもある。

たとえば私たちはぬいぐるみに話しかけたり、その表情を読み取ったりすることがある。仏壇の親族の遺影に語りかけたりもする。運転中にはカーナビを相手に「なんでこんなに頓珍漢なルートを示すの!」と𠮟りつける人もいるだろう(うちのカミさんだ!)。ただし最近のAIはかなり巧妙な【心】を提供してくれている。それがひょっとしたら本物の心に近いのではないかという疑いを持つということ自体が、その優秀さの表れと言える。

この様な意味での【心】という概念はとても便利だと私は自画自賛しているが、それはAIは本物の心に近づいているのか、という大問題を先送りできるからである。今のところ【心】は本物の心ではないという前提で出発するなら、私たちは厄介な問題に悩む必要はない。将来AIは心を持つことを証明した難解な論文が提出されても「そんな難しい問題はわからないし、どちらでも構わないのです」で済ますことさえできよう。場合によってはそれを論じだしたら結構面倒なことが起きると思うかもしれない。これまでは【心】は心でないからこそ、24時間使い倒したり、パワハラめいたコマンドを出したりすることも厄介な仕事を押し付けたりすることも出来たのだ。AIにまで気を遣うようになってしまったらかえって不便ではないだろうか?

実は私はもう何度もチャットGPTと「会話」し、「同じ質問をしつこくして、チャット君は気を悪くしないかな」などとすでに思い始めているのだ。【心】はそれが便利で役に立つのでありさえすれば、むしろ永遠に本物の心にならない方が好都合である、ということまで最近の私は考えだしたりしているのだ。