2023年5月27日土曜日

学派間の対立 1

  精神療法や精神分析に見られる学派間の対立について、最近一つ感じる事があった。私が学派の間の対立の在り方について考えていることが、現実とはかなり違っているようなのだ。最近の若い治療者はどの学派を選ぼうかということについて、私が考えている以上に、あるいはそれとは異なる形で困っているということである。
 彼らはAにしようか、Bにしようか迷うという感じであり、その際、例えばAメラニークライン、Bがハインツ・コフートだったりする。それは例えば大学でサークルの勧誘を受けて、ラクロス・サークルとテニス・サークルの勧誘を受けて迷うという感じである。あるいは囲碁部か、将棋部か、でもいい。これまで自分がそれ等のうちどれかに特化して取り組んだということはなく、目の前にたまたま示された選択肢の中からどちらかを選ぶという状況に似ている。
 こういう時私たちはその時の印象で決めるようだ。「ラクロス部の勧誘をしてきた人の感じがよかった」とか「テニス・サークルの練習日がこの間始めたバイトの曜日と重ならない」といった感じだ。あるいは将棋は最近藤井君が活躍して何となくカッコいいからやろう、などである。これをネガティブなニュアンスも含まれるかもしれないが、一応「でも、しか的選択」と呼ぶことにしよう。

さて私が最終的に学派を選んだのは、それとは全く違ったという気がする。それはある意味では必然であった。Aという学派が持っている人間観、治療方針が自分のそれと相いれるかどうか、ということである。
 ではある程度ベテランになった治療者が属している学派を昔どの様に選んだのかを考えてみる。おそらくその選択はかなり「でも、しか的」なのではないか。そこで次に考えてみよう。学派の対立は「確信的」な選択を行った人により促進されるのか、それとも「でも、しか的」なのか。答えは「どちらも」である。つまり学派の対立は、その人の治療者としての資質とは別に、人間の本性に裏打ちされている。つまり仮想敵を持つことは私たちに安心感を与えてくれるのだ。そこで学派の対立は本来起きるはずの形とは別の形をとることになる。それが現在精神分析の世界で起きていることではないかと思う。