たまたま早朝に目が覚めてつけたNHKでやっていた桂米助の「天覧試合」。30分間の巧みな話芸で、言い間違いはただの一度。(9回の裏のことを、表といい掛けただけ。)いくら本人が野球好きといえ、この込み入ったストーリーをここまでスムーズに、しかも間違えずに出来るのはトレーニングか、それとも記憶のよさが関係しているのか? 私にはこの種の能力はまったくないので感心するだけだが、記憶力がいい人は、スルスルと入って、スルスルと出てくるのかもしれない。いやそんなに簡単なものとも思えないが、単なる努力の賜物とも思えない。才能と努力が合致しないと出来ない芸はこの世に多いのだろう。
いつまでもしつこく終わらないこのシリーズ 「怠け病」はあるのか?。いまだにすっきりしていないからである。今日は参考文献として「それは『うつ病』ではありません!」(林公一著 宝島社新書、2009年)を取り上げてみる。
わかりやすい題、テンポのよい書き方。でも最初のほうで「うつ病は治る」と強調しているのは、なぜだろうと思った。治らない(正確に言えば、治るまでの時間があまりに長すぎて、すっきり治ったという印象をとても持てずに何年も経過している、というべきか)患者さんが少なからず存在することは、臨床家だったら知らないはずはないのに。本書ではあとの方に「難治性うつ病」という表現も出てくるので、林先生はそれと「うつ病」を区別しているのかもしれないが、いずれにしてもわかりにくいし、誤解を招きやすい。
そして本書のキーワードでもある「擬態うつ病」。これは林先生が本書を書く以前から用いている概念であるが、ひとことで言えば、うつ病を装うことで安穏とし、責任を回避している人たち、という意味がある。「擬態うつ病のもたらしたもの」として、安住、薬漬けの日々、擬態うつ病の連鎖、とある。全体の主張としては、最近増えてきたうつ病の中には、この「擬態うつ病」が含まれているということだが、それらの人々はそれを隠れ蓑にして甘えている、怠けている、という糾弾の姿勢が感じられる。
例えばこんな記載。「人間関係、過酷な仕事ということで倒れたり、落ち込むのは自然な反応である」(163ページ)。そしてそれは薬よりは、関係の改善であったり、自然の落ち込みはそれに耐えることというわけだ。
ただここでわかりにくいのは、人間関係、過酷な仕事で倒れるのは自然なことだとしても、その中には休養や療養が必要な人もいるであろう、ということを認めるのかどうか、という点である。例えば受験に失敗して深刻に落ち込むのは、「自然」なことだろう。では3日間布団から起き上がれないのは? それもよくある話だとしても、では二週間寝たきりになったらどう?叱咤激励してたたき起こし、新たな受験勉強を強いるべきなのか?それで果たしてうまくいくのか?
ここでうつ病と「擬態うつ病」を分けるとことはよしとしよう。でもそれでは「擬態うつ病」は一種の詐病なのだろうか? それとも治療を必要とする別の精神疾患である可能性はないのか? ここら辺の問題は、林先生の著書を読んだあとも、やはりくすぶり続けてしまう。