2010年12月3日金曜日

治療論(いちおう) 18 叱り付けない

私は幸い、ひどく叱り付けられたことはほとんどない。理不尽な叱り方をされたのは、中学校2年のころ、数学の教師に雷を落とされたことぐらいしか、思い浮かばない。そして人を叱りつけることも不慣れである。叱ったことがないわけではないが、その結果として決していい思いはしなかった。ただしここでは自分の子供を「叱る」ことは一応カウントしないことにする。だって子供って理不尽だし、最後には声を荒げて従わせる、という部分はどうしても起きてくるからだ。じゃないと親をやってられないというところがある。それに子供のほうも怒鳴られているうちに平気になってしまい、親が怒鳴っても平気で無視する、ということもおきてくる。
息子が思春期に入ってから、私は一度だけ叱ったことがあった。ただ「こんなときは父親は叱るのかな。じゃそうしてみるか。」という感じだった。それからしばらくはテキは口をきかなくなってしまった。
そしてポツリ。「パパはわかっていない。」 
もうこんなことは二度とすまい、と思った。(幸い息子は非行に走ることなく、無事成人した。)
また恐れ多いことだが神さんに声を荒げたことがある。実は患者さんにも一度ある。それらの結果も無残だったことはどこかに書いたから繰り返さない。(神さんは「幸いにも椅子を持ち上げなかった」、云々、というやつだ。) 
だいたい人は叱っても変わらない。というより余計意固地になる。行動が変わったとしても力に屈しているというだけだ。ほとんどの場合恨みを残す。よく叱られて師の愛情がわかった、などという美談を聞くが、大部分は眉唾である。だいたいが「師」の方の短気である。「これこれのことを教え諭したい。でもそのための手順が少し大変だ。そもそも弟子は師匠のいうことを聞くものである。だから一喝してしまおう」、となる。これは鬱憤晴らしかもしれない。あるいは一種の手抜きだ。なぜ手抜きかといえば「~という理由だから、~それをしてはいけないよ。なにか質問や反論はある?」というより、「××をやめよ!」というほうが時間がかからないからだ。
叱られた当人の心は一時的にグシャッとなっている。一種のトラウマといっていい。そのダメージはつけとなって、少なくとも一部は師匠の方に回ってくると考えなくてはならない。少なくともグシャッとなった心は、もはや「××をやめよ」を理性的には聞いていない。××は、~だからしてはいけないのだ。という部分が抜けている。××は、なんだか大変なことになってしまうから、怒られるから、してはいけない、でとどまる。
しかし弟子も少しひねてくると、「××してはだめだ、と言っているのは師匠、あなただけですよ。まったくなんて理不尽なんだ。」となる。あるいは師匠がうっぷん晴らしで叱っていると、叱られた方は、それを敏感にわかるものである。叱責はますます威力を失う。
だいたい人を叱る、とは大変なことなのだ。叱るということは、人に平手を食らわすようなものだ。相手の顔は苦痛でゆがむし、こちらの手だって相当痛い。少なくともしばらくはビリビリ感が残る。そしてそれがトラウマを残す。これはよろしくない。人の心はすさみ、治癒に時間がかかる。しかし人類史上、人はみな弟子を、部下を、子供をマイノリティを叱り続けてきたのだ。
私は動物世界の方がフェアではないかと思う。私がよく見るNHKの番組に、日曜7時半からの「ダーウィンが来た」がある。この間はコブダイの争いをやっていたが、これはネチネチしていない。領地を侵入されたオスのコブダイは、早速相手を攻撃する。理由がはっきりしている。知恵がついた人間は、勝手に領地を作っておいて、「ここはオレの領地だということもわからないのか。無礼なやつだ!」となってしまうのである。(運がよければ続く。)