2010年12月8日水曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その3

(承前)さて体の調子をちょっと崩して仕事を2,3日休むことを決めた人に対して、その家族や同僚はどうして「甘えだ」「怠け病じゃないか?」と責めることが多いのだろうか?その理由は余り明らかではないが、いくつか思っていることがある。一つには文化的なことがあるだろう。
日本の文化においては、皆が一生懸命働くということが、相変わらず美徳とされる。町を歩いていると、宅配便のお兄さんたちが、カートを走って押してお届け物をしているのを見かける。きっと彼らは「配送の際は小走りで」、というインストラクションを本社から受けているはずだが、それにしても誰も見ていないのに手を抜いて歩みを止めるということもせず、凄いな、と私は思う。私は十数年も、はるかにのんびりとしてあくせくしない(そしてあまり努力もしない?)アメリカ人を眺めてきたから、その違いはすごくよくわかる。

患者さんたちの語る彼らの職場の様子も、一生懸命は日本人にとって至上命令であるかのようだ。もちろん最近の若い世代では違ってきているのかもしれない。もっと自由を謳歌し、それ以外には手を抜く、という傾向が生まれているのかもしれない。しかし若者がマイペースになり、ハングリー精神を失っている、という懸念や指摘は、私が「若者」だった頃もあった。でも学生時代は散々遊んでいても、就職の時期を迎えれば、同級生たちは見事に変身して行った。今の若者も、就職のときはさすがに茶髪を黒に染め戻してリクルートスーツを身にまとう。結局すごくまじめになって社会人になるのだ。そのギャップが大きくなってきているというだけだろう。

そしてこのまじめさ、一生懸命さはおそらく日本文化を長年依然として支えているのだろう。日本製品の品質は工芸品から電気製品、農産物も含めて依然として極めて高い。最近では電化製品では韓国に大きく水をあけられたりしているといっても、中国や韓国のように国がてこ入れをして競争に力を入れる結果として一時的に生産性があがっているのとは、歴史が違う。日本人は根のまじめさや勤労精神から品質を高め、競争力を培っていると思う。
ではそのような文化を支える一生懸命の精神とは、その力を緩めようとするあらゆる傾向に対して警鐘を鳴らし、それを道徳的に糾弾するという姿勢だ。つまり「怠けじゃないの?」という疑惑の視線というわけだ。
私自身根っからのまじめさという文化をどうしようもなく受け継いでいるところがある。夏の間の「パリ留学記」を少しでもお読みになった方は、私の病的なほどのまじめさが表れているのを感じていただけたかもしれない。(自分で言うのもナンだが。)そしてその一部は、たとえば母親のまじめさ、そして自分がいかに小さい頃から熱心に勉強し、いかに苦労してきたかという話に影響を受けている。「昔は夜は電気がなかったからね、暗闇の中で広告の裏に昼間学校で教わったことをビッシリ書くのよ。次の日見たら真っ黒になるまで書いてあったのよ。」などという話を聞いたものだ。「努力しなくてはいけない」という超自我が心の中にデン、と据付けられたようなものだ。(まだ続く)