今日はこのブログの読者から次のようなメールをいただいた。ここに部分的に公表させていただいても差し支えない内容だと判断した。私が以前書いた内容に非常に敏感に反応していただいた方であり、感謝している。
「・・・ 過去の出来事の記憶は、それを体験した主体を含みこんで存在する」と先生は書いておられますが、「出来る限り生々しい感情を認識すまい」と無意識に防御した時の記憶にも人格は存在するのでしょうか?つまり記憶そのものはあるんだけど、全く実感が湧かないという場合のことです。私の過去は失われてる記憶と、人ごとのように、でも鮮やかに覚えている記憶でいっぱいです。もし人ごとのようにしか感じられない体験にも別人格の存在を疑わねばならないとすると、私は相当数の別人格を持っている人間ということになり、それらすべてを統合することは不可能に近いような気がします。」
ある意味ではその通りだ、と私は思うようになっている。これまでにない心境である。ただしこうなると「別人格」の意味するものもおのずと変わってくることになる。ファジーな記憶を持っている場合、その記憶自体が時とともに風化していく性質のものであれば、それは自然なことだ。その記憶はエビングハウスの忘却曲線に従い、忘れ去られていく運命にあるだろう。しかしファジーでありながら予告もなくよみがえってくる記憶、そしてそれがある種の強い感情をともなっているようなものであれば、それを記憶したときの「自分」の状態も一緒に残っている、と考えられ、その自分はDIDの「別人格」萌芽のような性質を持っているということを言っているのだ。
だからあたかも見ず知らずの他人が自分をのっとっているかのようなイメージをお持ちになる必要はないだろう。「別人格」といっても、やはり自分自身なのだ。ただ催眠などを通してその時の自分に成り代わることで、そのファジーな体験が、感情をともなった生々しい体験となるだろう。ただしそのような体験は一生訪れないかもしれない。そもそも催眠にかかりづらい人も多いだろう。ですから私たちの多くは、過去の情緒的、外傷的でファジーな記憶を有する以上は多重人格的で、しかしそのことを自覚することもなく、また日常生活上支障をきたすことなく日常生活を送っているのだと思う。
ちなみに私は確かマイクロソフトのウィンドウズXPからついている「復元 recovery 」の機能と、この話が結びついてしまう。「復元とはタイムマシンだ」、と誰かが言っていたが、確かにこの機能はすごい。ウイルスにかかって、あるいは何かの理由により不具合が生じるようになって、どこをどういじっても治らないとき、例えば問題が生じていなかった一週間前の状態に戻すように「復元」を設定すると、その時の状態を回復し、またコンピューターが普通に動くようになる。「復元」の機能がつくようになって、ウィンドウズを再インストールする、ということをほとんどしないでも済むようになっている。でもこれってすごいことだ。「復元ポイント」が一定時間ごとに作られ、例えば一ヶ月前のコンピューターの状況が保存されている・・・・・。これってまさに多重人格的だ。復元ポイントが10あれば、10の状態で動くことが出来るポテンシャルをコンピューターは備えていることになる。でもそのためにハードディスクにかなりのスペースを使っているとか。私は人間が過去の事故を多重人格的に備えることがある、と考えるとき、このようなイメージを持っているのである。