私は日ごろ腹を立てることは少ないが、あるとすれば通勤途中だ。はた迷惑な人々に遭遇するからだ。私は他人のことを考えない人は嫌いだ。醜く感じる。(ただし神さんによれば、私は自分がはた迷惑なことをしていることは、不思議と気が付かないらしい。「存在しているだけではた迷惑になっている」ということもあるから気が抜けない。)
今朝はいつものとおり表参道駅から銀座線に乗ると、ちょうど7人がけのシートに6人が座り、20センチほどのスペースが開いていた。年末だからこんなこともある。そこで腰を下ろすことにした。ちょっと詰めてくれれば一人分あく、という按配の隙間だ。十分タイミングを見計らい、座らせてほしいという手振りなどもしたつもりだったが、両隣の男は一切席をつめようとしない! 大抵こういうときはどちらかが少し腰を浮かせて移動してくれるものだ。さもなければ自分も窮屈な思いをするからである。ところが二人とも一切反応しないのである!! 特に右側の男は、意地を張ってでもいるように、目をつむって腕組みをしたっきり、一切動こうとしないのである。左の男は、ケータイに何か打ち込んでいる最中だったので、こちらも反応なし。お陰で「こんな窮屈な席に座ったことがない」、という状態で新橋まで耐えた。最期は意地である。同じようなことをしている中高年のオヤジを見たら、私はこんなことをつぶやいているはずだ。「ア~ア、そんなにまでして座りたいかなー」。でもこれは半ばプライドの問題なのだ。
新橋でやっと対面の席が空いたので、そこに移って自分が今まで「嵌って」いた席をあらためて見る。全然座る前から広がっていないではないか! 元々人が入れるスペースではないところに、私がいたわけだから窮屈だったのも無理はない。それでもその横長の席全体としては6人が結構余裕を持って座っているのだから、全体が少しずつ詰めれば済むことではないだろうか? 普通やらないか? しかも片方の男のコートなど、私の体が押していた部分だけ凹んだままなのである。まるで私の体の形がそこに残されているような感じ。私の体に押されてさぞ窮屈だったと思う。どうしてそこまで窮屈な思いをしてまで、横にずれることをしないのだろう?
ここを読んだ人は、なんと瑣末なことを ・・・ と思うかもしれないが、日中一番腹が立ち、人の本性を見た思いをするのはこのような時なのだから仕方がない。人の性質は、互いに匿名的anonymous になるような通勤時間、公衆の場であらわれる。既に関係性が出来ている間柄とはまったく別の顔を見せる。
まじまじと二人の男の顔を見る。もちろん私の方など見ようとせず、片方は目を閉じたまま、もう片方はケータイをいじっている。彼らはそれぞれの棲息する関係性の中でどんな人としてふるまっているんだろう? 案外すごく普通なんだろう。そこがまた不思議なところだ。
ところで私はさすがに女性の乗客から同様の対応をされるということはないように思う。その一点だけでも、私は世の女性が、男性どもよりはるかに好きである。私が嫌いな、彼女たちの車中の化粧だって、むしろかわいいくらいだ。男性は人のことを考えず、勝手でどうしようもない存在だ、と思うのはこういうときである。