2010年12月28日火曜日

解離に関する断章 その6. 会津若松の思い出

解離についての本を書き進めているが、昔の思い出話が出た。
そもそも私が精神科医として新人だった1980年の前半は、解離性障害という用語や概念は専門家の間でもほとんど注目されていなかった。もちろんその当時すでにアメリカでDSM-Ⅲは発行されていたが、そこに挙げられている診断としての解離性障害は、日本ではあまり解離性障害は話題になっていなかった。当然私も特に解離というテーマに興味を持つことなどなかったが、なぜか催眠現象には興味があった。その頃慶応大学の小此木助教授が主催する精神分析セミナーに通っていたが、そこでフロイトと催眠の関係などについてすでに聞いていたからであろう。
ちょうど1984年の夏だったと記憶している。当時会津若松に催眠の専門家がいるというのを聞いて、泊りがけで勉強をしに行ったということがあった。TU先生とおっしゃる方で、今でも福島県で臨床を続けていらっしゃる。そこで何度か先生が主として看護師に催眠を導入し、そのなぜか若くて美人ばかりの看護婦さんたちが、コロコロと催眠にかかるのを目の当たりにした。また私自身もかけてもらうという機会を持った。しかし・・・・私はこのとき間はまだ解離に「開眼」しなかったのである。催眠についても深く考えたわけではなかった。このとき看護師さんの一人にかりた50CCのバイクで、日曜日に五色沼を通り過ぎ、野口英世記念館まで行ってきた事を覚えている。それと読破しようと持っていったフランス語の原書 ”Mille Plateau” (Deleuse, Guattari) がまったく歯がたたなかったことくらいしか記憶にない。おそらくその時に私がTU先生によってコロッと催眠にでもかかっていたとしたら、少しは人生観が変わっていたかもしれなかったが、あいにくそうはならなかった。私は「なるべく同僚や友人に頼んで練習台になってもらいなさい。」とアドバイスを受けたが、サボり続けた。私は依然として催眠現象の意味深さや多重人格の存在を疑う側の人間、後に述べる「信じない派」のままであり続けた。

後に私がアメリカで1990年代の半ばから外傷というテーマに本格的にかかわった際に、その流れで再び解離現象に興味を持つことになった。そのアメリカでの体験であるが、ご存じの通り、1980年にDSM-IIIが出現して、いくつかの障害が一挙に世に出て精神医学の世界で市民権を得るということが、ちょうど留学当初に起きていた。それらのいくつかの障害とはPTSDであり、「ボーダーライン」であり、社交不安障害social phobiaであり、解離性障害だったわけである。解離性障害は精神医学的には従来のヒステリーの同義語であったにすぎないわけだが、それが解離という言葉に置き換わることで、ヒステリーという言葉が持っていたスティグマ性が失なわれ(これを私は、「ヒステリーが解毒された」、と称しているわけだが)、さらにはそれが外傷というテーマとの関連で紹介されたこともあり、非常に大きな影響を及ぼしていたわけである ・・・・。