2010年12月11日土曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その5  うつの話に行く前に

今日は岩崎学術出版社の「精神分析学事典」をPDFにした。高価な事典である。生前小此木先生が心血を注ぎ、2万円以上もする高価で大部(690ページ)の事典として出版されたが、バラバラにされて見るも無残なごみになってしまった。でもその代わりどこにでも持っていけるファイルに生まれ変わったことは嬉しい。丁寧にカラースキャンをして、圧縮しなかったら、たらなんと500メガバイト(0.5ギガバイト)の巨大なファイルになってしまったが。ただし私がこの事典を過去の数年間ほとんど開いたことがないのは、単に重いから、持ち運びが不便だから、というだけではない。不勉強だからだ。ということは、せっかくPDFにしても、意味がなかった?・・・・。やっぱりこれは罰当たりな行為だろうか?本を大切にするという立場の人は、悪夢にうなされるのではないか?

(承前)うつの話が一応メインなので、そこに行く前に寄り道。
人の心には常にある種のプロトティピカルな弁証法が働いている。それは特に葛藤状況で表れ、心の中では二つのモードが綱引きを演じる。一つは「あきらめ・怠けモード」。「もうたいがいにしようよ。」「あきらめて楽な道を行こうよ。」もう一つは「イケイケ・モード」。「ほら、頑張れよ。」「そんなことでくじけてどうする。またあとで後悔するぞ。」という感じだ。

私の得意な卑近な例。私は毎日通勤電車に乗るときにこの綱引きを繰り返している。地下鉄のホームに向かう階段の下から、いま列車を降りた風の乗客がパラパラと階段を上ってくる。こういうときが通勤客にとって一番悩ましい。走れば間に合うかもしれず、しまりかけるドアをかいくぐって列車に滑り込み、達成感を味わう。これがイケイケ・モードだ。他方あきらめ・怠けモードだと、「のんびりと行こうぜ。どうせ間に合わないよ。」しかしホームに着けば、明らかに少し急げば間に合ったタイミングであったことがわかり、行けば出て行ったばかりの電車を見送るむなしさを味わう。じゃ、イケイケで行くべきだったのか?でも走るのは億劫だし、血相を変えた初老の男がホームに駆け下りるのに出会う人たちも不快だろう。どちらにも一長一短ある。そんな時このモードが戦っている。よく考えればキャノンの「闘争・逃避反応」もこれに相当するのでは。動物界は、みなこの綱引きれを無意識的にやっているのかもしれない。

電車を捕まえるというときの卑近な例を出したが、人生も同じだ。風邪をひいて仕事に行くべきか迷う。この葛藤だ。このモードがどうして典型的かといえば、迷っている彼にアドバイスを求めると、たいていこの二つしかでないからだ。

さてこの二つのモードのどちらが優勢を占めるかは、その個人のおかれた環境がおそらく非常に大きな影響を与えるだろう。大体どちらかにプラスの価値が与えられる。格好を気にする場合には、「あきらめ・怠けモード」に軍配が上がる可能性がある。例えば進学校でなければ、学校の勉強を一生懸命することは、結構ダサいはずだ。進学校だって、期末テストを前に、「期末の準備?ゼーンゼン。昨日も12時間寝ちゃったよ」というのは圧倒的におしゃれだろう。

でもそんな不勉強男が放課後の部活に入ると、たちまち厳しい先輩が待っているはずだ。わずか一年先に入学しているだけの先輩に「お前ら、着替えが遅かったな。たるんでるぞ。校庭を3周走って来い。」といわれて、たちまちイケイケモードの世界に入る。そして日本では社会に出るということはこのモードに入ることだ。