2010年12月19日日曜日

治療論 その 19  本人が聞いてショックなことは言わない (一瞬考えるのはOK)

私は学生とか同僚とかに関連した書類をデータとして残す時、呼び捨てにせず、「●●さん修論草稿」という風に、「さん」「君」などを付ける。あるいはメールアドレスを登録する時は、「××先生自宅」「△△さん職場」という風にする。これはこれらのデータやアドレスが当人の目に触れた時、例えば「岡野の原稿」などと登録されるとしたらちょっとキツいな、と思うからだ。それを他人にはしたくないというわけである。
他人について考えを表明したり、その人に呼び名を付けたりする時、それを当人が見たらどういう印象をもたれるかということは比較的重要なことである。(だからこのブログでも、事実上誰のこともかけない、ということが起きている。登場人物はいつも、神さんかチビか、あるいは自分の話である。これではネタも尽きて当然というものでもある。)
さて治療論がこれとどう結びつくかということであるが、患者さんのことを考え、ケース検討会とかスーパービジョン、あるいは同僚の間での話題とするとき、それを当人が立ち聞きしていたとしたら、「裏切られた」「私のことをそんな言い方をするなんて、見損なった」と思うような話をするとしたら、何かがおかしいということだ。(この「何か」、にはその人が治療者をしていることそのものも含まれかねない。)
さて読者の中には、このテーマは、私が少なくとも2回くらいは書いたものと同じであるとお分かりになると思うし、例の「残心」のテーマとも通じるということをご理解のことと思う。またこのことは治療者がどのようなノートを取るのか、というテーマにも繋がるのだ。治療者の治療録に書かれることも、それを読まれたら患者が卒倒するようなことを記すべではない、というよりは書きたくなる心境になるとしたら、何かが間違っている。自分が治療者をしているということも含めて。
もちろん考えるのはいいのだ。あるいは本人が絶対に読まないような外国語で書くのもありかもしれない。
例えばある患者さんのことを「大嫌いだ!」と思ったとする。(ちなみに私はそのように思える患者さんは今はいない。これは断っておく。)

では心に思うことはどうだろう?
思い切ってある患者さんに「この●●●!」と思ったという場合を想定しよう。いや、これだと迫力がないので、「このピカチュー野郎!」ということにしよう。これだとワケがわからないし、誰も傷つかないだろう。よほどその患者さんに腹が立ったら、心の中でこうつぶやいて相手を呪うかもしれない。きっと次の瞬間には「自分は何を考えているんだろう?いくらなんでも自分の患者さんをピカチュー扱いするなんて(ぜんぜん迫力なし)」と思い直す。これならありである。一瞬心に浮かべ、それを打ち消す。しかしもし打ち消す気持ちさえないのなら、おそらく治療場面においても必ずそれは影響を与えてしまうだろう。そのような人と治療関係を維持することなど出来ないだろう。

だめだ。ピカチューという呼び方を用いた例を出したら、気が抜けてしまった。もう書く気力がない。
でもこれって面白いかもしれない。腹が立ったら思い切って言うのだ。

「このピカ!」ア、これだと別の意味に・・・・・。