2010年11月3日水曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(1)

留学記も最後の章である。おかげで印刷された原稿をデータ化する作業にもなれた。「パリ最後の夏」という題ははったりである。そもそも一年の留学だから一度しか経験しなかったのだから。でも同時に、パリには二度と行かない、という考えの表れでもある。(事実1987年の夏以来、一度もパリには赴いていないし、将来もその気持ちはない。)それにしても今この記録を読み直して思うのは、私の語学へのこだわりの強さである。語学はそれを母国語としないものにとっては、まさに修練の道である。ちょうどバイオリンを思春期以降に習うのと似ている。決して幼少時から始めた人間に追いつけない。ところが私のようなまじめな人間は、つい「極めたい」とか思ってしまう。私はそれを英語とフランス語とやり、両方とも極めることなどできていないが、フランス語は悲惨な終わり方をしたわけだ。一年も留学してものにならず、しかも何も有効活用していない。もうサビついて形すらわからないほどになっている。私がパリに行きたくないには、フランス語に挫折し、別れを再体験したくないから、とも言えるかもしれない。それだけに次に訪れたアメリカは、私をしっかり育て、鍛えてくれる場所でなくてはならなかったというわけである。



6月も終わりに近付き、ライネック病院での研修に慣れて来たかと思えば、もう帰国までふた月余りしかない。8月の終わりには「人並み」にウァカンスをとってアメリカまで足を伸ばしてみようと思っているので、もうパリでの生活は残り少なくなってしまった事になる。思えばこの一年殆ど何も出来なかったような気がする。興味のある資料を捜しにサンタンヌ病院のアンリ・エイ図書館にももっと通っておきたかった。それに何よりもパリに一年いながら訪れていない所ばかりある。気が向けば安い料金で近隣のヨーロッパの国々を回ることも出来た。しかし私は病院に通い続けてこのままバリの生活に区切りを付けることになりそうだ。
思えばよく病院に通ったものである。風邪で一日体んだ以外はヴァカンスを除いて一日も欠かさず病院に顔を出したことになる。我ながら何故ここまでしたか分からない。ここで正式な仕事を持っているのならばともかく、中途半端な身分で、それも言葉に苦労しながら通い続ける意味は果たしてどれだけ有ったのか知れない。この一年が自分の将来に具体的にどう役立つのかもあまり思い当たらない。フランス滞在という経験を生かして、ここでの思想を日本に帰って伝えたり、言葉の習得に励んだり、というのであればもっと能率的な方法もあっただろう。自分でもはっきりしないが、私はもっと漠然としたこと、一体自分はフランス人に交じって何処まで出来るのか、どこが限界なのかを確かめたい、という気持ちだけでこれまで来たようである。限界と言えばそれは去年来たばかりの時にその大枠は見えてしまっている。しかしそれが悔しく、少しでも何とかならないかとあれこれ模索しつつの9ケ月だった。
一体私は9ケ月の.生活で少しはここに適応したのであろうか、と考えてみる。ある分野では間違えなく私は一年前よりも多くの知識や習慣を獲得しているのは事実である。専門領域での独特の表現や、薬の名前、それによく聞かれるバリのいろいろな地名などなど。また一日のうちかなりの時間をフランス語で話して過ごすので、そのスビードは少しは速くなっているのであろう。しかし純粋な意味での聞き取りの力が進歩したという実感は結局持てていない。病棟でのフラン.ス人スタッフ同志の会話のうち、あるものは恐らく20~30パーセントも分かっていないのではないかと思う。早口で話し掛けられると聞き返さないことの方が少ないのではないか? 医師や患者の名前、薬の名前などの固有名詞はいやがおうでも覚えるので、病院の中での会話は何となく状況はわかる場合が多く、見当を付けて適当に応対しているだけで、何とかコミュニケーションが成立することが大半だが、フランス語そのものの肝心の点での進歩の実感が少しもないのである。私はもともと語学が好きで、それなりに思い入れがあるだけに、純粋な意味での聞き取りの力、音を拾える能力が頭打ちになっていることもわかり、それだけに残念な思いがある。
しかし純粋な聞き取りの力、というのはなく、あるのは特定の環境での具体的な事態に自分がどれだけ関与出来ているかだけなのかも知れないとも時々思う。というのも自分が中心となって進める会話と他人同士の会話を傍から聞いているのとでは、その質が全く違う、という実感があるからである。だから私は患者との一対一での対話はむしろ気楽な気分さえ覚えるようになった。
私は常々、精神療法においてはその際の言葉の完全な使用が必要条件であろうと思って来たが、その考えもほんの少し修正する必要があると思うようになった。というのも特定の患者との面接を繰り返すことにより、その世界を徐々に共有し、そこに現われる内容もある程度なじみ深くなると、言葉の障害の間題は後方に退いていく様に思えるからである。それは情緒的な関係において言語外のコミュニケーションが如何に大きなウエイトを占めているか、ということを同時に示していると思う。この事を考える度に私は東京である日米混血の英語教師から聞いた話を思い出す。彼女の母親は日本人で、その英語もなまりがひどく文法に関してもかなり危なげだったという。彼女はアメリカでその母親とアメリカ人の父親のもとで、全面的に英語による環境の中で育ち、完壁な英語を身に付けたのである。しかし彼女は思春期に至り、他人から指摘されるまで、母親の英語の不確かさに全く気付かなかったという。たまたま遊びに来たクラスメートが、彼女の母親の英語を聞いて、その日本語アクセントのためにぜんぜんわからなかったというのだ。これは彼女がそれまでに母親との間で伝達し続けて来たものが英語以上のなにものかであり、その伝達に関してはその母親のつたない英語でも十分に役に立ったという事情を示している。