いつかふと、治療者は聖人となることを目指すべきなのか、という疑問を持ったことがある。これは直感的にはいただけない。凡人は頑張っても聖人君主になれるはずがない。それでもなぜそんなことを考えたのかというと、私自身も精神科医になり、心の問題を抱える患者を担当するようになって以来、かなり「真面目」になったという自覚があるからだ。なぜなら「自分が治療を受けるとしたら、こんな治療者は信頼できないし、治療も受けたくない」というイメージが浮かんでしまい、できるだけそれに近づかないようにするからだ。自分の治療者が姑息だったり意地悪だったりしたら、その人に自分の心の問題を相談する気になるだろうか? この辺はごく単純な発想であろう。成人君主というのは大げさだが、人間として恥ずべき要素を省いていった先の努力目標というわけである。
同様のことはもちろん治療者に限ったことではない。例えば聖職者、法曹関係者、政治家、教師などの場合には同様か、それ以上のモラルスタンダードが求められるであろうし、それらの職につく人は、同様のプレッシャーを感じてもおかしくない。それに社会が (マスコミの作り上げる社会のイメージが、というべきか) それを要求するところがある。だから酒気帯び運転にしてもタクシーの運転手の殴打事件にしても、問題を起こした人が警察官や裁判官、朝●新聞社の記者などだったりすると、それだけで新聞ネタになるのだ。その記事の論調は、「裁判官ともあろうものが、よりによって・・・・・・」であり、そんなことは(たとえば)裁判官が備えているべきモラルの水準に反する、ということになる。
さて精神分析は、「治療者は聖人であれ」とは言わないが、結果的に治療者のあるべき姿として、これに近いことを要求しているところがある。分析理論は、いわば「治療者は邪念を捨てよ」といっているようなものだろう。それはこういうことだ。
フロイトは治療者は逆転移を持ってはならない、といった。逆転移とは、フロイトの定義では転移の治療者バージョンである。治療者が患者に対して起こす転移だ。では転移とは何かというと、人間が幼児期の問題を解決していない場合に、かかわる相手を親の二重写しのようにみなしてしまうということだ。そしてその相手とのかかわりの中で、自分にとって未解決な問題を滑り込ませてしまう。具体的には自覚していない願望を満たそうとしたり、不安を解消しようとしたりする。患者さんは病気である以上そのような転移現象を治療者に対して起こすのも無理ないが、直す側の治療者に限ってはそのような転移現象(つまり逆転移)を患者さんに起こしてはならないとフロイトは考えたのだ。
フロイトの主張はしごくごもっともだが、その後の分析家たちは、フロイトよりも自分たちを等身大で見るようになっていた。つまり治療者であっても人間である以上ある程度の転移現象を起こすことはやむをえない、と考えるようになっている。でもそれでもあからさまな転移を起こすような事態は決して薦められず、少なくとも治療者は自分の転移に自覚的であるべきだ、という了解事項は広くもたれている。
さて精神分析を離れた人間同士の付き合いの中で、転移現象に相当するものは、実はいくらでもある。普通の人は神経症傾向を必ず持っているから、他人との交流で、ひそかに自分の願望充足や不安の解消を滑り込ませる。もちろん表面上は、必要な情報を伝達し、相手のニーズにこたえ、自分の要求をするといった目的に合致した行動をとっている。ただそのとき同時に、「相手に好かれたい」「相手に自分を印象付けたい」「相手を馬鹿にしたい」「相手に意地悪をしたい」「相手に求愛したい」などの個人的な願望を同時に満たそうとする。すると人間関係はややこしくなり、いつの間にか相手を利用したり、相手に利用されたりということが始まり、ストレスに満ちたものとなる。精神分析で言えば転移、逆転移現象に相当する願望を、私はわかりやすい言葉で、「邪心」とよぶことにしている。
邪心を伴った行動は、周囲の人にしばしば敏感に感じ取られ、本人もその代償を払わされる。よくある例が、自分のナルシシズムの満足ということである。臨床例はいろいろあるが、社会面から一つ例を挙げてみる。前原外相の発言についてである。彼が公的な発言で、タカ派的なところが目立ち、そこにスタンドプレー的な要素が見え隠れし、「言ってやったぞ。どうだい!」的な邪心を私は感じてきた。だから中国側は、彼を「トラブルメーカー」呼ばわりしたのだろう。前原さんはこれをまったく見当違いの荒唐無稽な非難とは言い切れないと感じたのではないか? 彼が二,三日前に「自分の発言にこれから慎重になりたい」と言ったという記事を読んだ。それは正しい反応だと思う。しかし実は彼はこれを、数年前の偽メール事件の際に、すでに一度学んだのではなかったか? 邪念はなかなか抜けないものなのだろう。
ただし日本の「プロの」政治家の中でこの種の邪念のない人はおよそ皆無ではないか? 要はそれをいかにコントロールし、後に代償を払うような事態を避けることができるか、であろう。