2010年11月10日水曜日

治療論 その8. 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」

例の尖閣列島のビデオが出回ってからは、中国は鳴りを潜めているようだ。これは一つの重要な教訓を与えてくれている。こちらがまともに反応したら、向こうも一歩下がる。パワーポリティックスとは、ある種のスパーリングのようなものだと単純化して考えよ、ということだ。日本は相手からパンチを浴びせると、「こちらから向かっていくと、相手はもっとやけになって打ってくるのではないか。ここはあまり怒らせないようにするべきではないだろうか?」とパンチを引っ込める。すると向こうは怪訝そうな顔をしながら、ここぞとばかりさらに打ってくる・・・。日本はますます遠慮してしまう・・・・。ということを繰り返してきた、ということではないだろうか?だったら今回は、「不幸にしてビデオが出回ってしまった。しかしこれでどちらに日があるかは明らかであろう。オタクの見解をただしたい。」と中国側に提言をする、というのが最も正解という事になるだろう。やはり「石原慎太郎」流の反応が、実は一番まとも、ということになるのではないか?

今日のテーマも現在進行している大学院の授業「精神分析学概論」からのスピンオフ。
治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。いちがいにどちらともいえない、という答えはほぼ用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。もちろん問われること自体が、この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではない。
フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということをいったことから問題が始まった。彼の言ッた、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういうことであった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それがまさに「一つのことに注意を払う」ことになってしまうからだ。わかったような、わからないような。フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。
それに対して「でもそれでは後で何も思い出せないのではないでしょうか?」という問いには、「いや、どこにも注意しないで聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」ということをフロイトは言ったとか言わなかったとか。実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後にすらすらと再現してノートに付けたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり、というかおそらくほとんど無関係。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのに時間はかからなかったよ。」ちなみにこれはセッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
さて今までは、いわば前置きだった。実際にはノートの問題はこうなる。もし自由に心をめぐらせながら患者の話を聞くのであれば、ノートは特別の細部をメモっておく必要があるとき以外は詳しくとる必要はないだろう。大体のあらすじなら空で聞いていても十分に頭に入ってくるし、その時のノートを読み返すことはないであろう、ということになる。これは常識的な答えだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者さんの話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。もちろんノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルナメッセージを逃したり、ということはあるだろう。でもノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。ただし一つだけ注意点がある。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください。!」