2010年11月16日火曜日

治療論 その10.くらいか? 治療者の「上から目線」を戒める

昨日(というより一昨日になってしまった)は一日、対象関係論セミナー(渋谷、こどもの城)で、北山修、藤山直樹両先生の司会を務める。油の乗り切った両先生の講義を間近で聞く。これはかなり贅沢だ。こんな機会を持てることをつくづく幸運に思う。

「上から目線」という言葉は、つい最近になって聞かれるようになった気がする。私は個人的な事情から、過去を、留学以前と以後、とに分ける習慣がある。つまり私のアメリカ留学の始まった年である1987年以前と、それ以後という風に分けるのだ。留学した当時はネットなどもなかったから、日本で起きていることは週に一度とっていた週刊誌を除いては、伝わってこなかった。最終的に帰国したのが2004年であるが、日常的にいろいろな情報に触れる中で、「あ、これは前はなかったな。」と感じるものがある。そしてこの「何とか目線」という表現も以前にはなかったと思う。「カメラ目線」などという表現も「以後」の言葉だ。(第一「メセン」って、変じゃないか?それだったら「視線」だろう。ということで新しいものにわけもなく反発する年寄りの一員になっている私は、「上から目線」という言葉についても嫌いだった。しかし実は「上から目線」という表現は、「治療者としてあってはならない姿勢」を、わかり易い言葉で表現するのに非常に便利なのだ。


「上から目線」、とはようするに「他人を見下す」、ということであり、英語でのcondescending look という表現がぴったりだ。Descend = 降りる、というニュアンスがハマっている。もう少し日常語では looking down on 誰々、 ということである。そしてこの「上から目線」にもうひとつ、観察者のつもりになる、という意味を私は付け加えてしまう。ここがミソだ。するとちょうど、古典的な分析家の悪しき態度、ということになる。それは特権的に知っているという立場であると同時に、客観的に上から眺める人というニュアンスがあるのだ。

「最近の関係性理論とは、要するに治療者の『上から目線』の反省に立つ、と言っていい。ただし私が上から目線、という場合、ちょっと特殊な意味を込めている・・・・・。」 という感じでの説明になる。