2010年11月28日日曜日

治療論 その16 「冗談」(症状、ではなく)にこそ無意識が表れる

市川海老蔵がこれからマスコミに叩かれるのだあろう。父親の団十郎は激怒したとか。でも生まれつき定められた道を歩むプレッシャーも大変なものである。それをある意味で押し付けた団十郎が本気で怒っているとしたら、それもどこか違う気がする。(彼自身も同じような運命だったのかも知れないが。)海老蔵があのような形で羽目を外す事でしかバランスを取ることが出来ないとしたら、今度の「失敗」にもある種の必然性があるのかもしれない。

私にまだ精神分析に対する理想化が今よりずっと残っていたころ、言葉や症状が無意識内容を象徴しているという考え方はとても魅力的であった。これは標準的な知的レベルのある理科系人間の心をいたくくすぐる可能性がある。ほんの僅かなサインが、広大な無意識の領域に潜んでいる問題の鍵を握っていて、その人の将来の行動すらも暗示するというのだ。コップに残された後からDNA鑑定で犯人を割り出してしまうような、スリルもそこにはある。それがフロイトの提唱した決定論的な考え方の悩ましいところだった。
メニンガーに留学していたころ、ある非常に高名な精神分析家がカリフォルニアから訪れた。グロッツテインというアメリカには珍しいクライン派の分析家である。極めて知的でおおむね話の内容をフォローできないような講演を聞いたが、その後に彼によるケースのスーパービジョンがあった。その中でグロッツテインは、患者の最初の挨拶の言葉一つを分析することで、セッションの進行具合が分かる、というような話をした。ちょうどケースを出すレジデントが一つのセッションの最初の部分を報告したときに、彼がそんな話をしたのだ。
はたして彼が予言したとおりに、そのセッションが展開したのかは何とも言えなかったのだが、とにかくその風貌(私の中では全盛期のカラヤンみたいな威厳があったが、本当は全然違うかもしれない。)と高度に知的な講演の内容から、「うーん、さすがに高名な分析家は違う」と思ったが、その頃すでにフロイト的な決定論に対しては疑いを持ち始めていた私はどうしても疑問に思えた。本当にそんなことはできるだろうか?そしてそれは意味があるのだろうか? (そのセッションだって、その後どうなったかは、ケースのプレゼンターの原稿が読まれていくうちにどうせ明らかにあることである。それを予言することに意味があるだろうか?)
こんな時に素朴な質問をして、納得のいく答えをもらえるバイザーを持っていた私はラッキーだった。私のサイコセラピーのバイザーであるドクター・キューリックは「どの程度彼が予言できたかは、何とも言えないが、そういうことを言うのは、恐らく分析家のナルシシズムだろう。」と喝破した。メニンガーのスタッフであった彼も、グロッツテインのセッションに出ていたのだが、彼がそう言うのを聞いて、私は頭の中がひっくり返った思いだった。「そ、そんな事なの? 偉い分析家なのに、そんなのアリ?」 もしそうだとすれば、分析家とはなんという人種だ、と思った。
いまではドクター・キューリックの言ってくれたことは、少し誇張が入っていたとはいえ、あながち間違いではないという気がする。患者の挨拶の仕方一つからセッションの行方を知るには、心の構造は複雑すぎ、ノイズが多すぎる。ビルの屋上から一枚の枯れ葉を落とし、下の舗道のどのブロックに着地するかを正確に言い当てるようなものだ。
ところで私がいつも思うのは、それとは別のことだ。ちょっとしたジョークに、その人の本心が実に現れることがある。これはほとんど例外がないのではないか? こういう部分に、一言が本心を表しているという決定論は結構当てはまるように思える。
私が朝出がけに見ている「朝ズバ」で、みのもんたさんがしばしばジョークをいう。「(石川)遼クンが優勝だって?すごいですよねえ。私が教えたとおりにやったからね。」そしてゲストの笑いを誘う。もちろんこれはジョークだが、実に彼らしい。「みのさん、ゴルフがそれほどうまいんですね」とでも言ったら、彼は「何いってんの?ジョーダンに決まっているじゃない」という反応をすることは間違いないが、やはりこの種のジョークは何かを表していることが直感的にわかる。某テレビ局でかつて高視聴率を取り、裸の王様になりかけていると聞くみのさんのナルシシズムを垣間見せてくれるのだ。
何かを自慢したいという願望や性的なファンタジーは、いつもその表現をうかがっているようなところがある。そしてジョークという形を借りてでも姿を現すところがある。だから治療者の語るジョークというのは注意が必要なのだ。
グロッツテインが問題した挨拶でも、その語尾や調子に、治療者や患者のお互いに対する気持ちが表れることだったらしばしばあるだろう。患者さんが入ってきたときに治療者が 「今日は時間どおりですね。」と言ったとしよう。それは「いつもは遅れるあなたが、今日は定刻通り入らっしゃいましたね」という驚きや避難を表している可能性がある。これは「患者さんの毎回のちょっとした遅れについては言及しないでおこう」と治療者が思っていたとしても言葉として紛れ込んでしまうというわけだ。
では私はフロイト張りに「言葉のちょっとした特徴は、無意識を象徴している」とでも言っているのだろうか?それは違う。ジョークや挨拶に表される人の気持ちは、その言葉が発せられた両者によって、実際に感じ取られることが多いからだ。その意味では漏れ出たもの、enactment 、そしてその意味ではあまり無意識、ではないということになる。これはフロイトが「夢判断」で披露したような、謎解きのような、アナグラム的な分析とはかなり異なった、非常に実感を伴った体験に基づいたものなのである。