2010年11月17日水曜日

治療論 その11.治療者は「普通に」話を聞く

治療者は患者さんの話を「普通に聞く」ことを心がけよ。といっても何のインパクトもないかもしれない。しかし普通に人の話を聞くということは実は非常に難しいことだ。人は先入観を持つからである。だからお互いをよく知り合っているはずのもの同士の会話ほど、「普通に聞く」事が難しくなることはよくある。親子間や夫婦間でこれはよく生じる。たとえばこんな会話がその例である。

A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:「何よ、その言い方!」
B:「あ~、キミとはやってられない。」

普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。でもBはそれを「普通」に、素直に聞いて、反省して謝罪する、というわけではない。AはそのBの態度に腹を立てる。それにBが更にキレる。

ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。

ところでこのA,Bの相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? そりゃそうである。共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについている。AとBの間でさえ、そうなっているはずだ。

たとえばAがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてBはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについてはけんかにならない。

ところがAはかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にこだわる。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存でそろえたものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいしバカバかしいと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。だからお互いに折り合いがつかないことについては、もう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。

さてはさみの置き場所とは他愛もない例だが、AとBは互いの趣味や世界観、知的能力の違いがそこに現れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる。Aが何度も持ち出す、過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらに互いに相手への不満や非難の要素が入ると、さらに素直に聞けなくなる。しかしそれぞれが相手に話すことで不満をある程度は解消したがる。これはしばしば衝突する。そう、相手を知っていること、そして相手と依存関係にあるということは、相手の話を普通に聞かなくなる関係なのである。

さて治療者の聞く姿勢は、もちろんパートナーとは異なる。そこには大きな遠慮があり、互いへの尊重がある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるのであり、広いパーソナルスペースを互いに認め合っているからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして治療者は患者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、治療者の機能としてわきまえているからである。

おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。

治療関係においては、治療者は患者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも患者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で患者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。

どうだろう。「普通に話を聞く」って、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、療法家の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。

7年ほど前に書いた「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。