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さていじめの問題である。
こんな大事な問題を一言だけコメントするのは忍びないが、心の問題を扱う立場としてはあまりに重要な問題である。群馬県桐生市の小学6年生A子さんが先月23日に自殺し、家族が学校でのいじめが原因だと訴えている問題である。A子さんが自殺する2日前には、一人で給食を食べていると、担任教諭以外の教職員に泣きながら訴えていたことも分かったという。
問題は、市の教育委員会が、小学校の報告に基づき、いじめがあったと認定したものの、いじめと自殺との関連については「明らかな因果関係は認めることはできない」とし、明確にしなかったということだ。特に小学校長の言葉の移り変わりが議論を呼んでいるようだ。
はじめは「A子さんが特別にいじめの対象になっているとは把握できていない」
次に「いじめがあった。」 11月8日の記者会見では「A子さんの命を守ることが出来ず、大変申し訳ございませんでした」。しかし「いじめが直接的な原因かはわからなかった」。さらに「(いじめが自殺の一因になった可能性については)「まぁ、わかりません」と口ごもったという。
もっとシンプルに言えば、「いじめはあったが自殺との直接の因果関係は不明である。」 と言っているのだが、この言い方が言質をとられたくない、責任を認めたくない、という意図によることは、ほぼ確かだろう。いじめが自殺の一因になった可能性まで「わからない」といっているところに、それはあらわれている。理論的には「可能性」は常にあることになる。その小学校の教育方針、親の姿勢、A子さんの性格傾向、すべてが「可能性」に含まれるのである。極端なことを言えば親がA子さんから片時も目を離さなければ自殺は防げていたわけで、親が完璧に注意をしてはいなかったことまで、「自殺の一因である可能性」はあるということになる。さらには精神科的に言えば、もしA子さんがいじめ以前からうつ病の兆候を示していたとすれば、「一因」のかなり大きなものになり得てしまい、この事件はさらに複雑になってしまっていただろう。(ちなみにA子さんがうつであった客観的な証拠はなさそうだ。)
校長が「(いじめが自殺の)一因である可能性」まで「わからない」と口を濁したことは、責任を認めるような言動は一切控えること、つまりその種の質問にはイエスと言わないことを関係者の間で申し合わせているか、あるいは自分であらかじめ決めていたということだろう。それに引きずられて「(いじめが自殺の)一因である可能性」まで否定してしまったのだろう。
もちろんこのブログでの私の考えは、かなり徹底した不可知論、それを逆側から見た失敗学的な世界観にたっているのであり、自殺についても一つの原因を求めることが出来るという立場とは異なる。その点からは、「いじめはあった」のであれば、それは「自殺の直接的な原因であった」かは「わからない」が、「自殺の一因であった可能性」はもちろん「あった」ことになる。
人は、社会は、そしてA子さんの遺族は特に、自殺との因果関係を明確にしたいと思うだろう。そうでなければ哀しさや怒りのやり場がなくなってしまうからだ。そしてそのことは、「社会から、学校からいじめをなくそう」という動きに貢献する一方で、「いじめはありました。それは自殺に関係していた可能性があります」という機会を、保身的な人たちからは逆に奪う結果になることは、このA子さんの例に示されていると思う。
(何らかの)いじめはあった(らしい)と率直に認めることは、自殺の唯一つの原因を探さないという姿勢から生まれるのだろう。