2010年11月7日日曜日

親子の関係 (2) なぜ親は救いようがないのか。子供に関しては「病気(ビョーキ)」だからである

まあ、私が親であり、すくいようのない立場になっているから、こんなことも書けることなのだが。
親は、子どもに対して「神経症」いやむしろ「心気症」や「強迫神経症」のような状態になっているのだ。例えば足のかかとの裏の皮が、「ちょっとでも段々になっていると、平らになるまで剥かなくては気がすまない」(神さんの例)、というのは、正常範囲の神経症だ(ということにしておこう)。しかしそれが気になって気になってしょうがなく、出血しても剥き続けたら病気である。気になって気になってしょうがない、いつも出血寸前で思いとどまる、となったらこれは病気に近いところをギリギリでウロウロしている状態といえるだろう。(神さんは、皮をむいて、そこだけ極薄になり、血の色が透けているかかとを、気味悪がる私に無理やり見せようとする。悪趣味だ。)神経症とは、このように一つのことに強いこだわりを見せるが、その対象は普通は身体の一部であったり(心気症)、自分の心に浮かぶ特定の思考内容だったりする(強迫神経症など)。
さて子供が元気かどうかを心配する親は、ともすると子供に対しても、それがあたかも自分の一部であるかのようにして、強いこだわりを示しかねない。親は子供がごく小さいころに、自分の身体や心に対してと同様、あるいはそれ以上の関心を抱く時期がある。母親は特にそうだが、父親も母性的なタイプの場合には起きる可能性があろう。そして不幸なことにそのこだわりは固着してしまい、子供がどんなに大きくなって、場合によっては老境を迎えても、それを捨てることができない。
もちろん、子供には親に対する神経症なこだわりはない。トンデモナイことだ。それに動物生態学的にも、子供にそんな余裕はない。そんなものがあると、今度は自分の次の世代、つまり自分の子供に対する神経症的なこだわりをする余裕がなくなってしまうではないか。
親の子供に対する神経症的なこだわりとはどういうものか。たとえば5歳を迎えた子供が一人で近所の保育園に通い始めるとする。今日は初めての日だ。親は子供が見えなくなるまで見送ることにして、そのあとは保育園までのほんの200メートルほどの道のりのことを考える。「あそこで角を曲がる。これは大丈夫だろう。しばらく歩くと横断歩道がある。ちゃんと手を挙げて渡れるだろうか?たまたまわき見運転をしている車が突っ込んできたらどうしよう、アー!!」と叫び、子供の後を追って飛び出そうとする母親は夫にたしなめられる。「お前、そんなことを心配していたらこれからやっていけないぞ。」母親は、「そうね…」といって、もう子どものことは考えないことに決める。そうでないと何も手に付かない。ほかのことで気を紛らわすしかない。
こうして親がそれでも子供の後を追って安全確認をするということを思いとどまるのは、もう子供は一人でできる、安心なのだ、という結論に達するからというわけではない。そんなことをしていたら親はおかしくなってしまい、夫の言う通り、「これからやっていけない」からだ。
そうなのである。親は子供のことを頭で振り払おうとすることでしか、この神経症から逃れることができない。もう少し言えば、子供が目の前から消えてしまうことが、親を解放してくれる。だから・・・・基本的には思春期以降親をケムタがる状態になった子供は、親と別居をするのが健全なのである。それは親を守り、子を守る。子の中にはそのような親の神経症に暴露されて、自分も神経症になり、疲弊してしまいかねないからだ。