2010年11月4日木曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(2)

唐突だが、親にとって子供とはどんな存在だろう。順調に育ってくれたら独り立ちをして出て行く。するともう簡単には帰ってこない。あれだけ何年も一緒に過ごした息子が、もう盆暮れに数日帰ってくるかこないか。いやそのうちに半年に一度電話だけ、ということになる。(私の両親は健在だが、今の私は彼らにそうしているだけだ。)仕送りをしても特に感謝されるわけではない。誕生日にメールひとつ来るわけではない。電話をしても面倒くさそうな返事をされるだけだ。(そうしている。)それでも子供のことを想い続けるとは、どういう事だろうか? 子どもがどこかで幸せに毎日を送る、それだけである。これからまったく縁を切ることになっても、あるいは何らかの拍子に恨みを抱かれたとしても、一言も感謝されなくてもそれは変わらない。ひょっとしたらこちらが親であることを完全に忘れてしまったとしても同じだろう。子どもがどこかで幸せに生きていれば、ただそれだけでいいのである。
それにしても親はどうして感謝されないことをして満足するのだろう。それは恐らく子供は親に消えて(でも必要な分だけ養ってもらって)もらうことでもっとも幸せになるからではないか?親は子供を子供以外の存在としてみることが出来ない。子供は常に親の前では子供にさせられる。それは決して子供の為にならない。それでも親が子供の周りでうろうろするなら、少なくとも消えた存在でなくてはならない。事実人類の歴史において、それは問題なく踏襲されていた。人はそれほど長生きしなかったからだ。寿命が伸びても閉経の年齢に関しては昔と変わらないと言うが、母親は閉経後も命を長らえることは想定外だったのであろう。親は実際に消えていたのである。現代においては、姥捨ては自主的に生じなくてはならないのかも知れない。

ライネック病院で、私は何人かのスタッフと対等に近い関係を持つことが出来たと思える瞬間を持った。対等、ということは私が精神科を専門とする者としてある程度の主張をし、それが彼等にとって役立つ情報となったり'その考えを変えるに至ったりする場合である。ただでさえ自己主張が強く、自分の非を認める事が少ないように思えるパリ人が私の主張を簡単に受け入れてくれるはずはない。だからそのようなことは起きるとしてもあくまでも「瞬間」的なのである。
病院で私の立場に近いのはとりあえずアンテルヌ達ということになる。これまでも述べた通り、フランスではアンテルヌは病棟の日常診療の主役とも言えた。丁度日本の大学病院で言えば日常臨床の経験をある程度積んだ研修医、ないしそれ以上の医師、という事になるだろうか。私も医師として扱われる以上理屈からは彼等と同様に見なされる。しかし実質が伴わないのでそれだけ厄介な存在になっていたのだが。私達の病棟には6月からチェリーとサラモンがアンテルヌとして勤務していた。彼等は11人という少人数の入院患者に常に目を配る。お互いに仕事を取り合うような勢いで病棟の活動を運営していく。私にはその様な力は到底ないが、私が特に担当を主張する2、3人の患者について彼等は私には任せてくれたので、私はそれ等の患者に関しては自分の見解を述べる機会があつた。彼等アンテルヌが精神科ではなく一般医を専門としている事も関係していた。彼等にサイコセラビーの経験はなく、また彼等を指導する教授も週二回の回診を通じての薬物療法主体のマネージメントに重きを置くとなると、面接の時間帯を設定して、治療関係の動きにこだわる私の主張は、とりあえずは耳を傾けようか、という気を起こさせたのかも知れない。
彼等アンテルヌと私は手分けして他の病棟からのコンサルテーションの依頼にも応じた。ライネック病院では救急外来に自殺企図の患者が多く入院して来るが、それ等の患者には一様に精神科医の往診を依頼して来た。一日に2、3件という場合も少なくなく、私はそのうちの一人を担当させてもらい、その病棟の主治医と相談し、精神科の処方をし、病棟に帰ってその依頼を控えてあったノートに自分のサインをする。その様なときは私も彼等アンテルヌと同じように一様それなりの仕事をした、という気になる。しかし週二回の回診の後のスタッフ会議では、自分の患者について有る程度の意見を述べるだけで、後は他の患者についての彼等同志の会話について行けずに始終黙り通し、という事もあり、その様な時には自分が結局は病棟の活動に如何に取り残されているかを痛感するのである。もっともその様な場合スタッフは私のことを、「、全くわけがわからずにいる」、というよりは「半分眠った様で元気がないね」と表現してくれるので私は少し救われた思いがした。