2010年11月29日月曜日

治療論 17 常に直感とは反対を考える Think counter-intuitively

精神療法を行っていると、普通の人との普通の会話というのが、時々わからなくなる。こういうところが私が社会性がないところだと思うが、面倒になったり、まだるっこしくなったりする。おそらく私が酒を飲めないことも関係していると思うが、延々と終わりのない会話、というのはとてつもなく疲れる気がして、初めからパスしているところがある。(うちの神さんは、気があった人となら、何時間でも話し込むという天才的な能力を持つ)。
関係性が定まっている人との会話はそれなりに楽しめる。患者さんとの会話も、学生との会話もそれなりに楽しい。神さんとの会話も楽しい、というよりは同居している以上、楽しくしないと意味が無いので、それなりに楽しいものにするよう、心がけている。冗談を言い合うとか。学生と患者さんとは楽しいが、目的と内容が限定されていて、内容を伝え合ったり、こちらから伝え終わることで会話が終わるというところが重要である。それ以外の、時間に制限がなく、それが心地よく楽しいから話し続ける、ということは、年齢と共にますますできなくなっていく。むしろ一人でいるのが一番気楽である。これはやはり社会性の欠如である。
ところで精神療法家としての会話について書こうとして、書く前から脱線したわけだが、理由のない脱線ではない。精神療法においては、クライエントへの反応の仕方は「直感とはいつも反対」を考えているところがあり、それが何か特殊な注意力を必要とする。それは疲れるが、同時に醍醐味がある。すると「直感に素直に従い、つまり気の赴くままに交わす会話、普通の会話というのが刺激が少なく単調に感じられるわけだ。
なぜ治療者の交わす会話が直感とはいつも反対を目指す、ある意味で非常に不自然な思考に基づくものとなるかというと、直感的な思考は、患者さんが日常生活でいくらでも出会っているからである。それが何らインパクトを与えなくなって患者は治療者を訪れている。当たり前の反応をしてもむしろ「またか」という反応を招きやすい。
直感とは反対のことを言う、ということは、すなわち天邪鬼な思考をする、ととられては困る。患者さんの言葉から誘発されるさまざまな反応から、通俗的で誰でも考えるような反応を濾し分ける、というところがある。そして当たり前の反応しか出てこないのであれば、むしろ黙って聞いているというほうを選択するだろう。
たとえば患者さんが「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。先生もわかってくれない」といったとしたら、おそらくそれに対して思い浮かぶあらゆる反応は、彼が出会った反応の繰り返しに過ぎなくなるであろうし、それよりは黙って聞いているほうがいいのである。それで何かが解決する、というわけでもないが、少なくともこちらが患者さんの言葉を重く受け止めていることを示すことになる。
通俗的な反応、それは結局は感情的な反応ということになる。同じことを神さんから言われたらどうだろう。「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。アナタもわかってくれない」これを聞いて私は「またいつものが始まったか・・・・」とかつぶやいて、ムッとした態度を取るかも知れない。あるいは「そういうアンタも、こちらの気持ちをわかっている、とでも言うの?」と返すだろう。これは正直で、直感的にすぐ思い浮かび、感情的な反応であり、ゴミ以下の価値しか持たない反応なのである。
ただし精神療法家として仕事をするとしたら、このような価値のない言葉をやり取りするような環境もまたある程度は必要と言える。それは相手のためにはならなくても、自分自身の何かを排出して、重荷を下ろす上では何らかの意味を持っているということになる。