2010年11月9日火曜日

治療論 その7.  共感のために明確化する

今日はあまり一般の方には興味がないテーマについて書いてみた。ほとんど思いつきであるが、思いつきだからこそ残しておきたいと思う。

もちろん精神療法で何を目標にするかは、患者の抱えている問題の質によっても、また現在の機能レベルによってもことなる。ただ私は精神療法家を目指す心理の学生に対しては、基本は「共感のための明確化である」という説明をしている。これは意外とわかりやすい説明の仕方だと思っている。治療者が行うべきことのほとんどはこれに集約される。精神療法を始めるに際して、「とりあえず行うことは、患者さんの話を明確化するための質問です。」と説明すると、学生はいろいろな疑問を持つ。「何を聞くのか?」「~を聞いてもいいのか?」「聞いてどうするのか?」などなど。しかしそれらは「患者さんに共感するために必要なことなら聞き、それ以外は聞く必要はない」ということになる。明確化する必要のないほど直接伝わってくる話なら、じっと耳を傾けていればいい。
「治療の目的は、共感を行うということだ」と言うと、心理の学生はそれをそのまま受け止める傾向があるが、すでにトレーニングを経ている治療者には、これに生理的な反応を示す人が多い。「精神療法では洞察を目指すことが真の目標だ。共感ではない。」ただし患者への共感をまず目指さない治療者が、どうやって洞察を得ることの援助をできるだろうか? 洞察とは、患者がこれまで見ようとしなかった点にリアリティを感じるプロセスであり、本来はつらいものである。患者は様々な抵抗に打ち勝ってそれを達成するのだ。自分を分かってくれていると思えない治療者からの指摘は、単なるダメ出しになってしまうのである。
「共感しただけでは治療ではないのではないか?」それはそうかも知れない。「患者は具体的なアドバイスを必要としているのではないか?」そういう場合もあるだろう。しかしアドバイスをたとえ行うにしても、その前に患者の世界に入ることなしに出来るわけではない。別言すれば、十分な共感を得た治療者は、もうアドバイスをする一歩手前にいる。患者の置かれた状況や心理に十分共感ができた治療者は、それを自分自身の視点に立ち戻って言い換えたり、捉え直したり、感想を述べたりする事もできるであろう。それはすでにアドバイスらしきものである。でもこの「らしきもの」である点は重要である。実は治療者は患者にアドバイスをすることを本業としていないし、そもそも患者に代わって彼の人生に関するいかなる判断をくだすことも出来ない。患者が自らの判断を行う際に助けとなるような視点を提供することだけだ。患者の人生に共感した治療者がその上に出来ることといえば、自分の主観からそれがどう見えるか、感じられるかということである。そしてそれは恐らく多くの患者にとっては不必要なことなのだろう。なぜなら多くの患者にとっては、分かってもらうことである種の満足感を得ているからである。