2010年11月25日木曜日

治療論 14 セラピストとしての生きがい

セラピストの生きがいとは何かを考える。これは案外むずかしい。医者、それも例えば外科医の生きがいなどと比べると、はるかに複雑だ。有能な外科医はとてつもないハードスケジュールをこなしているように見える。外科手術はそれこそ一昼夜以上かかって行うようなものもある。外科医の貴重な時間の多くが手術室で費やされることもあり、およそ常人とはかけ離れた生活パターンを持つ人が多い。夜遅く手術を終えてから、深夜まで外来をこなし、その後に診療録を書く、などということもある。どうしてそんなハードスケジュールをこなせるのかと思うが、実は彼らは手術の成功を祈っている患者自身やその家族から「ありがとう」という感謝の言葉のために生きているようなところがある。そしてそれを彼らは隠さない。

テレビでよく「天才外科医の激務の一日!」とか銘打って、彼らの手術室内外での活躍を紹介すると、私はつい見てしまう。彼らは何時間もの間手術に全神経を注ぎ、一ようやく仕事を終えた後、間をおかずして家族の待合室を訪れる。そして嬉々として手術の成功を伝えるのだ。彼らは家族に「きっと良くなりますよ。よかったですね。」と言っているように聞こえ、また「私はこんなに見事に手術ができましたよ。すごいでしょう?」と得意になって手柄話をしているようにも見える。

外科医はたいてい家族にはよくわからない用語を用いて手術の様子を説明する。どんなに大変な術式だったかを訴えているようでもある。二年ほど前にうちの神さんが歯科で上下の顎の骨を削るという大手術を受けたことがある。若干疎通性の悪かったその歯科医は、手術中に撮影したというおどろおどろしいポラロイド写真を持って、まだ意識がぼっとしている神さんのもとに現れたそうだ。そしていかに手術がうまくいったかを説明したのだが、その顎の骨が露出し、血だらけで、上下の方向すらも分からなくなっている口の写真は、見ていてもただショッキングなだけであったという。

さて、セラピストも外科医と同じサービス業である。同じように困っているクライエントを扱う。出来れば「ほら、こんなにうまく治療が行きましたよ」と報告したいのだろう。しかしクライエントがどうなった状態が治療の成功かを見定めることは、外科手術よりはるかに難しい。なぜなら一度の面接で具体的に何が改善したかを明確に示すことは事実上不可能な場合が少なくないからだ。それにそのセッションでクライエントが快適な体験をしたということは、その治療がうまく入ったことを必ずしも示さない。たとえばセラピストに会うことがあまりにも楽しみになってしまった場合には、決してそれから先の順調な治療プロセスを暗示しているとは限らないのである。こうしてセラピストは、外科医に比べて、何をやりがいにしているかが非常に難しくなってしまうことも了解できるだろう。

そんな事情から、セラピストの生きがいは、外科医とはかなり異なったものになるが、そのなかでも特徴的なものは、次の問いにより表されるものだ。

「自分は、正しい治療をしているのだろうか?」

セッションごとにクライエントがどのように改善を見せているかは非常に見えにくい。そこで「正しい治療をしている限り、患者は改善するはずだ。」ということになる。そして精神療法の世界では、様々な学派が、「正しい」治療法を唱導しているのである。

世界に600種以上存在すると言われている精神療法。その多くが技法と呼べる治療方法を示し、それに従ったセラピストたちを抱えていることになる。そしてそれぞれが自分たちの治療法こそ「正しい」と認識しているとしたら不思議な話であるが、そのような事態が生じる大きな原因が、上に述べた「効果が見えにくい」という事情なのである。

セラピストが毎日のセッションで「生きがい」「やりがい」を求める気持ちは大きい。外科医が患者さんや家族からかけられる「ありがとう」の言葉の分を、治療者がなにか別のものに求めようとすることを責めるわけにはいかない。しかしその結果として自分が「正しい」と思われる治療法をクライエントに一方的に押し付ける結果になるとしたら、実に皮肉な話である。