2010年11月5日金曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(3)

小沢さんが岡田幹事長にようやく会ってもらえたものの、国会招致を断わられたという。それに対して管さんが「会えただけでも一歩前進だ。これからも粘り強く説得を・・・・」でも関係が悪化している外国の首脳に会う、というような話じゃないんだから。一人の国会議員にいいように振り回されていることの異常事態をどう考えるのか、ということだ。情けない話。
でも誰が総理大臣をやってもこんなことになってしまうのも分かっているわけだ。これまでに自民党、民主党も含めて優秀な人達が皆情けないパフォーマンスしか見せられなかったということは、日本という国で総理大臣の職をこなすのは、やはり至難なんだろう。


私が担当出来たのは入院患者のごく一部であったが、その中には私の特に印象に残った患者がいた。彼女P婦人は42歳、二ヵ月前から始まった不安を伴った抑欝状態が、夫の長期の出張を前にして昂じ、入院となった。丁度彼女の入院して来た日がアンテルヌの交代の時期で、病棟に私しかいなかった為、受け入れを私がしたのが切っかけで、そのまま担当することになった。ともかくもカルテを埋める必要上私が彼女の病歴を取り、私の聞き取りが不充分なせいもあってか何度も同じことを聞き返してしまい、彼女は途中で、「私はなぜ何度も同じことを繰り返して話さなくてはならないのですか? これまでのことは殆ど前の病院の資料に書いてあることでしょう?」と言って涙を流し始めた。彼女はこの数年間の間に6回の同様の入院歴があり、その度に何度も同じような問診に応じなくてはならなかつたため、その言い分にもっともなところがあった。しかし私は何よりも自分の不自由なフランス語のせいで彼女が私を拒絶しているものと思い、二、三日の間必要最小限の会話のみを交し、誰かに担当を代わって貰わなくてはならないな、などと考えていた。しかし彼女は私を主治と思い続けて、数日後に不安発作に襲われた時に彼女の方から面談を申し込んで来た。それから私はP婦人とかなり長い面接を週に3、4回の割で行なうことになった。
P婦人は元来引っ込み思案で対人緊張が強く、思春期から類繁に不安発作に襲われたが、幸い優しく理解のある夫に恵まれ、また思春期に達した三人の子供があつた。ここ数年の欝状態もこの様な性格傾向の上に生じ、時には入院により症状の軽快を待つという必要があった。
私はP婦人との対話を通じて幾つかの事を考えさせられた。彼女は病棟内でも他の患者との交流を避け、また午前中は過呼吸発作を伴った不安に見舞われて看護婦を呼ぶ、ということが多かったが、その様な傾向に対して病棟では余計な同情や配慮はかえってよくない、との態度がとられることが多かった。彼女は一番慣れた私との話を好み、他の医師に対しては不安を表わす傾向にあったが、私の態度が患者の依存心を助長しているのではないかという様にもよく言われた。私もP婦人が、私に依存して来ている、と感じられたほとんど初めての患者であった為に、それだけ思い入れが大きくなりつつあることが分かっていて、むしろスタッフに対してそこを突かれないように気を使ってばかりいた様に思う。
それにしても、と私は思った。パリ人はなんと他人の依存傾向に巻き込まれまいと警戒する人達であろう。患者の依存的傾向を知りつつ一歩譲歩してそれを受け止める、といった場面に出会うことは少ないように思う。P婦人の示す種々の不安について、特に退院に関するそれについて毎日聞いていた私が、突然スタッフ会議で一週間後に設定されてしまった退院の期日について、もう少し余裕を持った方がいい、主張するだけで、私は何度かからかいの目を向けられた気がした。