2010年11月21日日曜日

治療論 その13 治療者は好意的に話を聞く - それは結局共感の一つの形だからだ

昨日の夕刻から今日の夕刻まで、三つの予定をこなし、時間がまったくなかった。火曜日にはすこしまとまってPDF化をしてみよう。分厚いフロイトの全集が目の前から消えるのはさぞかし心地よいだろう。

患者:「また店長に差別されたんです。」
治療者:「そうですか。この間もそんなことがあったそうですね。」
患者:「今度はもっとひどいんです。連休はシフトに入れてほしくない、と前から言っていたのに、他にいないからどうしても入って欲しい、と強引に押し切られました。明らかに私に不利なスケジュールをぶつけてくるんです。」
治療者:「なるほど。あなたは前からそこは旅行にいくつもりだとおっしゃっていたんですよね。」
患者:「そうなんです。店長は私をやめさせようとしているのかも知れない。」
治療者:「なるほど。その可能性もありますか ・・・・・・。」

こういうふうにセッションが始まるとする。治療者の方は、もちろん患者さんが店長の行為を過剰に被害的にとっている可能性も考えている。いや、かなりその可能性が強いと踏んでいるかも知れない。でも治療者は「店長はひどい」という患者の主張にいったん沿う。明らかに患者の話を好意的に、ポジティブに聞く。これは技法だろうか、それとも面接のプロセスの中でのごく自然な流れなのだろうか?

この治療者の姿勢は、ちょうど被告人に対する弁護士の立場に似ている。クライエントを推定無罪の前提のもとに弁護する。この場合は、法廷における一つのルールに従ったものと言えるだろう。クライエントの立場をなるべくポジティブに捉えて、逆にネガティブに捉える検事の側と見解のぶつかり合いを演じる。しかし治療者の好意的な姿勢はそれとは異なる意味を持つ。

患者の話を好意的に聞くのは、患者自身がその見方を取るのであり(まあ、当たり前の話だが)、治療者は共感を示すプロセスで同様の好意的な味方をするわけだ。ただしもちろんそれで終わるのではない。そこから出発する、ということである。まずは好意的な解釈に立って話を聞き、明確化をすすめ、その前提から主発した際の矛盾を患者と確認しながら、より中立的な立場に向かうのである。こんな風に。

治療者:「ところでどうして店長はあなたに連休に入ってもらおうとするんでしょう。」
患者:「一応理由はあるようですけれど。連休は忙しくなるので、私が店にいると安心だ、とか言うんです。」
治療者:「えっ? そういう事ですか。ということは店長はあなたにむしろ期待しているということではないんですか?」
患者:「いや、そレは口実で、そううまいことを言って、実は私に嫌がらせをしているように思えるんです。それに第一店長は私を褒めたことなんてないんですから。」
治療者:「でも店長は他のスタッフを褒めたことはありますか?ないんでしょう?もともと表立って褒めることがなくても、見る所は見ている、という可能性はないんですか?」
患者:「・・・・・・・。」

この例では、治療者が患者の話に疑義を示して、代替案として示した内容も、また患者に対する好意的な内容になっている。が、いずれにせよ最初の患者の見解を否定する方向にあることは確かである。
患者の話を好意的に聞くというのは、結果的に患者に対する共感と等価である、という理屈は、当たり前すぎてちょっと盲点かもしれない。でも私達人間の心は、ほとんどあらゆる点で自分に甘いということも確かなことである。その例外は、自分に対する否定的な見解を示す場合などであろう。患者は「どうせ私なんて誰も見向きにされない。誰にも愛されない。」という世界観を示すことがある。しかしその時でさえ「そうばかりとは言えないと思いますよ。あなたを好きな人もたくさんいますよ」という、ある意味では患者の考えを真っ向から否定するような見解もまた、ほぼ確実に患者の心を和ませるのも事実だ。
もちろん治療者は治療場面を離れてまで患者に好意的な見解を持ち続ける必要はない。しかし治療者が治療に注ぐエネルギーの一部は共感に使われ、それが結果的に患者に沿うという形で向かうのだから、むしろ患者びいきになるのはごく自然なことであろうと思う。誰でも同一化する対象にはそうなるのである。幼い子供に対して好意的な見方しかできない親の立場と同じである。そして不幸にも私たちの多くは、パートナーや親に好意的な見解を持ってもらうことが出来ない。何しろ普通に話してもらうことだけでも大変なのだから。