フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や快楽に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、多くのわれわれの目にはあまり実感がわかないが、彼自身はそれを身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに一気に恋心を抱いた。それは結婚して家庭を支えるための収入を得るために、研究者としての自分を捨てて臨床に転向する大きな動因の一つとなったのである。彼はマルタとの4年ほどの婚約機関の間、禁欲を保ったとされる。そしてそれは900通を超える熱烈なラブレターを書き送るエネルギーとなった。ところが結婚したのちのマルタへの熱烈な感情表現の記録はほぼ皆無といっていい。その情熱は恐らくフロイトが想像していたよりははるかに消えてしまったのである。そしてフロイトは、ある意味では当然すぎる現実に出会ったのだ。それは「恋愛対象への情熱は、その現実の姿を知ることで消える」ということだ。あるいは「性欲の対象は、思いを成就することで色褪せる」でもいい。私がなぜこのことを強調するかと言えば、フロイトが後に精神分析における禁欲規則を唱えた際、にこのことが一番頭にあったと考えらえるからである。彼はわかりやすく言えば次のようなことを言っている。
「患者の情熱を治療者が受け止めるとしたら、つまりそれにこたえて恋愛関係に入ってしまったら、転移は消えてしまう。すると治療を進めるべき力そのものが消えてしまう。だから治療者は禁欲的でなくてはならない。」
もちろん私は少し誇張して書いている感じもしないでもないが、少なくともフロイトは治療者が患者の情熱にこたえることの倫理的な問題について強調しているという印象を受けないのだ。それよりも「関係を持ったら情熱はもうオシマイでしょ」という割り切り方は、フロイトが婚約から結婚に至る過程で彼が身をもって体験したことであると私に想像させるのである。